Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

日本のゴルバチョフへの条件

2011-06-28 | 文学・思想
先日「脱原発は集団ヒステリーか?」で紹介した社会学者ベック氏の記事内容を読んで何を感じただろうか?党派性もなく、運動家でもない我々は、あれやこれは?と結論に近づくについてデジャヴのようなものを感じたのではないだろうか。

早速その記事への反論が殆ど同じ分量で、同じ文化欄の同じ一面の記事となっている。書いているのは作家のウルリッヒ・シャハトでその太陽エネルギーの太陽について「凍りついた太陽」と称する著作がある。東ドイツ出身で、獄中に生まれ、プロテスタントの反政府運動家として活躍して、後に社会民主党の候補としてその後無所属で政治活動をしていたようだ。

さて、氏が問題としているのは、まさに社会の安寧秩序の権力とそれに対抗する運動と革新の永遠のテーマであり、ひょっとすると共和主義と民主主義の二大政党制の議論と読み替えてもよいのかもしれない。

そこでは、政府と市民が共闘するということがそもそもルソーの「総意」ということであり、核災害の非常時にハイパーモラル政治の共闘の中で統一化されるとなる。

しかし実際には、そのような破局はドイツでも、それどころか一人も死んでいない福島でさえも起こっていないので、自然災害の津波や地震で多大な被害が出たことに比べれば原発施設の安全のスタンダード化への問いかけなどは極特殊なものだとする。

それだからベック氏がペテンを遣っている訳でなくて、議論を古典的なデマゴーグの善悪の二元論へと持ち込んでいるというのだ。つまり原子力産業は悪であり、政治的にも合理的ではなく、これらの産業や儲け主義を規制する正統性が、だからそこに存在するという意見なのだと。

それは、ウルリッヒ・ベックが90年代の共産主義の敗北によって「敵を失った民主主義」を見つけた社会学者であることを示していて、そしてその後の展開はどうだったと訝る?左右のイデオロギーの対決は本当に止揚されたのかということだろう。

それに対して、ベック氏の回答は、もはや福島や原発とは関係なく、嘗ての急進な社会革新で太陽の国への闘争をしようとしているのではないかと。つまり、それは「レーニンの強制徴用凍結」であり、「毛の大飛躍」ではないのかと。当然のことながらベックのそれでは所有者のいない太陽には「誰も権限がない」と牧歌的に誤魔化してはいるのだがと、そして自由に運動する社会と憲法によって規定されている国の共闘の幻想は詩人でもない限り危険であると訴える。

ここまで読んで、日本の今置かれている社会・政治状況を鑑みて愚考すれば、丁度こうした議論における力学が官僚組織と政治家の間にも存在していて、可能性が強まってきた菅首相の再生エネルギー解散によって、現在党首として足場を置くその党派性からソヴィエトのゴルバチョフのような政治学的に矛盾に満ちた選択をするのではないかが注目される。

当然、即時脱原発で押し通す緑の党の国政進出が、菅を日本のゴルバチョフにするかどうかの必要条件となる。そして有権者には、上で議論となったような対極化した思考態度が要求される。それがそもそも自らの置かれている環境というものを掴み取れる 必 要 最 小 限 の 方 法 であるからだ ― ウルリッヒ・ベックのインタヴューを朝日新聞が5月13日に「オピニオン 原発事故の正体」として掲載したようだが、さてそれに対する反論はどうだったか?日本の文化輸入は往々にして一つの思潮が権威として正統化されてしまうのが特徴である。議論の無いところには学問も文化も存在しない。

菅首相の二股膏薬のような決断力のない態度はそのもの日本国民の鑑であり、そのアカデミズムの未熟を表徴している。重要なのは、「物分りの良さそうな納得」ではなくて、多数決の民主主義での強い意志の表明と、それによって初めて院内で交わされる激しい議論、院外での高尚な議論の止揚から生ずる文化でしかない。

シャハト氏は、エジプトの太陽信仰が最終的には支配のシステムとなっていったことを挙げて、その代わり現代でも太陽と対峙する人類の希望や意思は、人間の作った秩序からも甚だ遠く、宇宙の次元での自然は人々の畏敬の対象でしかないと、ドイツにおける結論めいた賢明が外国からしたら如何に馬鹿げたものであるかと非難する。

まさに陽が昇り沈む往く日本の歴史的な存在価値がここに問われているのかもしれない。



参照:
Will er jetzt den Sonnengott spielen?, Ulrich Schacht, FAZ vom 28.6.2011
ホッブス、ロックの思想と、東京電力 (田村伊知朗政治学研究室)
report 23 (雨をかわす踊り)
六月も終わり (作雨作晴)
原発は引き伸ばされた原爆 (壺中山紫庵)
脱原発は集団ヒステリーか? 2011-06-15 | 文学・思想
彼らの勇気と行動を讃えよう 2011-06-27 | BLOG研究
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