Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

殆んど生き神の手腕

2017-07-13 | 
承前)一幕二幕と順々にVIDEOを見ながらカステルッチ演出について触れて行こうかと思った。しかし録音だけを聞き返していると、そんなことは後回しという気が起こる。なるほど音楽劇場であるから劇場的な受容に音楽があるということなのだろうが、録音だけを聞いているともはやこれはスパーオパーであることに気付き、映像はどうでもよいという気持ちになる。それほど音楽的な完成度が高くなっている。

先ず何よりも最大の欠点であったアニヤ・ハルテロスの歌うエリザベートの歌唱が完全に修正されている。どのような経緯があったかは知るすべがないが、欠点であったリズム的な面で大分シャープになっていて、ピンボケ写真がアナログ的に随分と磨かれて来ている。ここでの批評と同じようなものに本人が留意したことはあり得るのだが、それ以上にFAZの「歌唱的に整理されていないばらばらの様式のアンサムブル」との指摘はある意味とても要を得ていたプロフェッショナルな指摘であったかもしれない。

つまり、一方ではゲルハーエルのような立派なドイツ語歌唱があって、どうしても他の歌手もその影響を免れない技術的な精査があり、そうしたなかで態々こまごまとプリマドンナの歌唱にいちゃもんつけるまでも無く、修正されていったという可能性は他の歌唱にも見つかる。如何にこのプリマドンナでも、十八番になっているようなマルシェリンなどであれば歌唱を変化させるのは難しいかもしれないが、「あまり若々しく響かない」との指摘もあったこのエリザベートに関しては修正してきたのだろう。兎に角、この修正はとても天晴で、可成り、その思考の柔軟性と芸術的な姿勢を見直した。

一方のゲルハーエルの歌唱も全体の中でよりアンサムブルにより適合するようになっていて、お手本であるフィッシャーディースカウのオペラ歌唱よりも完全に上を行っているのは間違いない。フォークトの指揮者好みのセンシティーヴなタンホイザーの歌唱も安定してきていて、録画保存されても恥ずかしくないものになっていて、ツェッペンフェルト、パンクラトーヴァ、そしてその他脇までとてもよく歌い込まれている。

そして何よりも要となっている管弦楽団が漸くこの音楽をものにしてきていることで、その弦楽の音色などはカラヤン指揮のベルリナーフィルハーモニカ―に匹敵するほど磨かれて来ており、その演奏技術の精緻さはとてもヴィーンの座付き管弦楽団では不可能な領域である。管楽器も度重なる事故を経験して漸く技術的課題を克服した感じである。

それにしても今更ながら、キリル・ペトレンコの音楽監督としての腕には驚愕するしかない。月始めの「影の無い女」上演に際して、南ドイツ新聞は「この二幕のフィナーレだけでも、この監督が在籍時に何をなしたが、将来とも語り継がれるであろう」というように評したが、正しくこの指揮者はバイエルンでは殆んど生き神である。

これで次の「タンホイザー」公演は東京公演であるが、折角のハルテロス女史も乗らないが、新制作シリーズで核となったゲルハーエルの歌唱が無くとも充分過ぎる水準を示せる準備は、これで完全に整っていることになるのだろう。とは言いながらも、演出面も考慮しながら、更に詳しく見ていく必要がある。なぜならば、この新制作の真意と言うのは、そのようにしか判断を下せないからである。(続く



参照:
母体より出でて死に始める芸術 2017-05-30 | 音
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
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