夜中にボストンからの放送を録音した。深夜寝室で薄く流していたので寝不足になった。なにか立派な音楽が鳴っていた。録音は最後に手動で止めたので完璧にできた。聞き返してみると最初は前日に続いてプレヴィンのためのエニグマが演奏されていた。これを予想して二時間半枠をとっておいたが、通常通り一時間半枠で収まった。
それにしてもいつものように低音が強調されているので合唱団の声がそこに綺麗に乗り、まるでカラヤン指揮ヴィーナ-ムジークフェラインのような趣だ。この指揮者が何を目しているのかは知れないが、少なくとも音響効果としては天晴れだ。この人がオペラを演奏するとどうなるのか?ロンドンの「ローヘングリン」は悪かったが、一度聴いてみたい。
その亡くなったプレヴィンの追悼放送は三時間もあって中継録音放送は最後の一時間だけだった。無駄に流していたようでいて、ふんだんにインタヴューが流されたので面白かった。子供の時にフルトヴェングラーを聞いて熱を出した話しがあって、またハリウッドからロンドンに来ても管弦楽団が下手だったというのもよく分かる。しかしその反面、改めてプレヴィンの指揮した録音を聴くと、本人も認めるように指揮が下手である。だからレパートリーを絞っていたというが、恐らく今の時代なら通じないかもしれない。
シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲をざっと目を通した。正直に書いておくことで自分の参考になると思う。何回も音楽は聴いていても譜面を見ることでとても明白になったことが幾つもある。何よりも音程関係を前から後ろへ後ろから前へ、若しくは反行させるには視覚的な把握無しには難しいということだ。
誰かが首を右から左へ動かすことで、また左から右へと動かすことで把握できる空間認識と音階のことを話していたと読んだことがあるが、まさしくそれである。有名なカデンツァからの技巧的にコーダへと進むところであるが、耳で聞くだけならは如何にも難解に感じ、不機嫌さが際立つが、ここに行くまでにその音程関係にある程度馴染んでいると聞こえ方が変わってくる可能性が強い。
要するに前から後ろに進むだけでは対位法的なルネッサンス音楽もそれだけで終わるが、そこでと同じようにやはり技巧の成果がそこに生じる。二律背反しているような話しとなるのだが、ルネッサンス音楽におけると同様にその流れを把握しておくことが重要だ。それには楽譜の視覚的な助けが大きいと気が付いた。要するに耳だけでは不可逆な方向にしか進まない。
来週ベルリンで演奏するコパチンスカヤのミュンヘンでの演奏は自由さとその艶やかさで評されていたのだが、恐らくそのような聴き方をしているとやはりこの曲は分からないと思う。しかしレイボヴィッツが主張するように、それ以上に作曲家がハイフェッツを予想していたように華麗な奏法の技術が駆使される書き方をしていて、ベートーヴェンのそれとは全く異なるというのは面白い指摘だ。先月話題にしたばかりで、声においても不自然な音階を書き綴った楽聖であるが、ここでもそれを比較対象とすることで、如何にシェーンベルクが後期ロマン風の奏法を繰り広げているかが分かる。こうして私たちは、キリル・ペトレンコが大きな弧を描いてこうしたプログラミングをしていることに気が付く。
意外に手が届くようになってきた。管弦楽はその音程関係をしっかりと支えて行かないといけないので、泣かされると思う。今回のベルリンでの演奏だけで満足する成果は示されないだろうが、可成りのところまで詰めてくるだろう。そしてその精妙な音程関係を探っていくことで新生のベルリナーフィルハーモニカーの基礎的なアンサムブルとサウンドが出来てくると思う。
参照:
アンドレアス・プリヴィン追悼 2019-03-03 | 文化一般
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
十二音の対位法の映像化 2013-12-20 | 音
それにしてもいつものように低音が強調されているので合唱団の声がそこに綺麗に乗り、まるでカラヤン指揮ヴィーナ-ムジークフェラインのような趣だ。この指揮者が何を目しているのかは知れないが、少なくとも音響効果としては天晴れだ。この人がオペラを演奏するとどうなるのか?ロンドンの「ローヘングリン」は悪かったが、一度聴いてみたい。
その亡くなったプレヴィンの追悼放送は三時間もあって中継録音放送は最後の一時間だけだった。無駄に流していたようでいて、ふんだんにインタヴューが流されたので面白かった。子供の時にフルトヴェングラーを聞いて熱を出した話しがあって、またハリウッドからロンドンに来ても管弦楽団が下手だったというのもよく分かる。しかしその反面、改めてプレヴィンの指揮した録音を聴くと、本人も認めるように指揮が下手である。だからレパートリーを絞っていたというが、恐らく今の時代なら通じないかもしれない。
シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲をざっと目を通した。正直に書いておくことで自分の参考になると思う。何回も音楽は聴いていても譜面を見ることでとても明白になったことが幾つもある。何よりも音程関係を前から後ろへ後ろから前へ、若しくは反行させるには視覚的な把握無しには難しいということだ。
誰かが首を右から左へ動かすことで、また左から右へと動かすことで把握できる空間認識と音階のことを話していたと読んだことがあるが、まさしくそれである。有名なカデンツァからの技巧的にコーダへと進むところであるが、耳で聞くだけならは如何にも難解に感じ、不機嫌さが際立つが、ここに行くまでにその音程関係にある程度馴染んでいると聞こえ方が変わってくる可能性が強い。
要するに前から後ろに進むだけでは対位法的なルネッサンス音楽もそれだけで終わるが、そこでと同じようにやはり技巧の成果がそこに生じる。二律背反しているような話しとなるのだが、ルネッサンス音楽におけると同様にその流れを把握しておくことが重要だ。それには楽譜の視覚的な助けが大きいと気が付いた。要するに耳だけでは不可逆な方向にしか進まない。
来週ベルリンで演奏するコパチンスカヤのミュンヘンでの演奏は自由さとその艶やかさで評されていたのだが、恐らくそのような聴き方をしているとやはりこの曲は分からないと思う。しかしレイボヴィッツが主張するように、それ以上に作曲家がハイフェッツを予想していたように華麗な奏法の技術が駆使される書き方をしていて、ベートーヴェンのそれとは全く異なるというのは面白い指摘だ。先月話題にしたばかりで、声においても不自然な音階を書き綴った楽聖であるが、ここでもそれを比較対象とすることで、如何にシェーンベルクが後期ロマン風の奏法を繰り広げているかが分かる。こうして私たちは、キリル・ペトレンコが大きな弧を描いてこうしたプログラミングをしていることに気が付く。
意外に手が届くようになってきた。管弦楽はその音程関係をしっかりと支えて行かないといけないので、泣かされると思う。今回のベルリンでの演奏だけで満足する成果は示されないだろうが、可成りのところまで詰めてくるだろう。そしてその精妙な音程関係を探っていくことで新生のベルリナーフィルハーモニカーの基礎的なアンサムブルとサウンドが出来てくると思う。
参照:
アンドレアス・プリヴィン追悼 2019-03-03 | 文化一般
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
十二音の対位法の映像化 2013-12-20 | 音