デンマークからの放送のストリーミングはとても音質が良い。そして評判の演奏は最初の「仮面舞踏会」序曲から程度が低かった。少なくとも私が長く所持している全曲盤の程度に遠く及ばない。制作と生の違いではなく所謂アインストュディールングが成っておらず、指揮者が何も分かっていない。今調べるとブロムシュテットが指揮していた楽団と同じようだ。つまり指揮者が悪いということになる。
指揮者は私自身スイスの作曲家から推薦されて初めて知ったファビオ・ルイージという名のイタリア人であって、二月始めに初めてそのオペラ指揮を聞く予定にしていた。しかし、指揮者のキャンセルで叶わなかった。昨今は、自分のために誰それが指揮してくれると確信している人がいるが、私がチューリッヒのオペラの初日に出かけると知って、どうもこの指揮者が怖気づいたようだ。そう信じて疑いが無いが、そもそもイタリア人指揮者などを信じるのがいけない。しかしまだファビオから取り繕うメールは入っていない。
それにしてもネットでの反響からしてこの程度の放送管弦楽団よりもN響の弦が冴えないとすると、明らかに二流以下である。その元首席指揮者ブロムシュテットのキャリアが示すように、大体バムベルクなどと同程度の実力であることは三小節も聞けば玄人なら直ぐに分かる。なるほど日本ではミュンヘンの放送交響楽団が世界屈指の楽団のように扱われている意味がこれで分かる。要するにマナスルどころか、六千メートル級の無名峰でも麓から見ればチョモランマと変わらないように高く見えるという状況らしい。感動する聴衆には何も罪は無いのであって、いけないのはジャーナリズム不在である。
それにしてもルイージという指揮者は思っていたよりも程度が低い。これならブロムシュテット指揮の方が嬉しい。間違いなくフィリップ・ジョルダンの方がまともにコンサートを振れると思う。その通り、そのキャリアの地位でもう完全に追い抜いている。あれほど才能の無い指揮者と思ってもやはりルイージよりは良いだろう。昨年ルイージを聞きに行くと言ったら「全然駄目」と吐き捨てた彼の指揮をよく知っている友人に来月再会することになっているが、これはその話で大変盛り上がりそうだ。
勿論ジャーナリスムと言ってもこのように単刀直入に元も子もないことを書くと誰も特に感動したがりのターゲット聴衆には全く届かない。しかし、先日のランランの新譜発表を受けてのFAZマガジンのようにあまりにも鋭く真実を書いてしまうと誰も反論できなくなる。つまり、その新アルバムはピアノを習い始めたシナの四千万人の若者のための曲集で、その中で最も難易度の高いメンデルスゾーンの「糸紡ぎ」の曲でも、才能の無いピアノの学生でも弾け、嘗てのようなアクロバチックなピアノを弾かないようになったとだけ客観的な事象を書けば全て事足りる。一体ものを書いて糊代を稼いでいる者がその程度の綴り方も出来ないでどうしようというのだ。それにしてもデンマーク語の子音の朝鮮語のような音やシナ語のようなイントネーションはなんだろう。スェーデン語の方がもう少し深く発音してこのような弾く子音は少ないように思うのだが、馴染めないと思った。
木曜日の文化欄にベートーヴェンフェストのニケ・ヴァークナーの発言が載っている。ミュンヘンの音楽大学長だったジークルリート・モイザーに関しての発言で、一度は学内での女性暴行で有罪が確定したピアニストにフェストに参加を計画したが、市民の反対に合って取り止めたことについてである。それどころか新聞に「職業女性は天使ではいられない」とMeToo運動を真っ向から否定するような発言をしていて、それについては撤回しない一方、フェスティヴァルのことを考えてもうこれ以上は発言しないとしている。要するにお友達のモイザーを擁護しているのだろうが、この優柔不断な態度は全くよくなかった。音楽関係でも歌手のエリザベート・クールマンなどは、指揮者のグスタフ・クーンの復帰を強く糾弾している。そしてドレスデンのシュターツカペレにはガッティ―が登場する。
ヴァークナー博士のような見識があっても、やはりキャリアーなどとは全く関係の無い女性たちと同じで、また「使われるものの悲哀」などは全く分からない人なのだなと思う。MeToo的なポピュリズムとは異なるコンテクストで事象が見れないとすると、もうそれは仕方がない。ボンでの経営収支も悪くなっていて、何処となく黄昏感が靡く。そのように思うともう一人のパスキエ女史が昨年の「ヴァルキューレ」で最後まで拍手していたのにも拘らずもう一つ冴えなかった表情を思い出す。何か不満でもあったのだろうか?
参照:
都市文化を再考する 2019-02-04 | 文化一般
いつも同じことの繰り返し 2017-12-07 | マスメディア批評
放送管弦楽団あれこれ 2019-02-09 | 雑感
私にとって、それは神だ 2017-11-27 | アウトドーア・環境
指揮者は私自身スイスの作曲家から推薦されて初めて知ったファビオ・ルイージという名のイタリア人であって、二月始めに初めてそのオペラ指揮を聞く予定にしていた。しかし、指揮者のキャンセルで叶わなかった。昨今は、自分のために誰それが指揮してくれると確信している人がいるが、私がチューリッヒのオペラの初日に出かけると知って、どうもこの指揮者が怖気づいたようだ。そう信じて疑いが無いが、そもそもイタリア人指揮者などを信じるのがいけない。しかしまだファビオから取り繕うメールは入っていない。
それにしてもネットでの反響からしてこの程度の放送管弦楽団よりもN響の弦が冴えないとすると、明らかに二流以下である。その元首席指揮者ブロムシュテットのキャリアが示すように、大体バムベルクなどと同程度の実力であることは三小節も聞けば玄人なら直ぐに分かる。なるほど日本ではミュンヘンの放送交響楽団が世界屈指の楽団のように扱われている意味がこれで分かる。要するにマナスルどころか、六千メートル級の無名峰でも麓から見ればチョモランマと変わらないように高く見えるという状況らしい。感動する聴衆には何も罪は無いのであって、いけないのはジャーナリズム不在である。
それにしてもルイージという指揮者は思っていたよりも程度が低い。これならブロムシュテット指揮の方が嬉しい。間違いなくフィリップ・ジョルダンの方がまともにコンサートを振れると思う。その通り、そのキャリアの地位でもう完全に追い抜いている。あれほど才能の無い指揮者と思ってもやはりルイージよりは良いだろう。昨年ルイージを聞きに行くと言ったら「全然駄目」と吐き捨てた彼の指揮をよく知っている友人に来月再会することになっているが、これはその話で大変盛り上がりそうだ。
勿論ジャーナリスムと言ってもこのように単刀直入に元も子もないことを書くと誰も特に感動したがりのターゲット聴衆には全く届かない。しかし、先日のランランの新譜発表を受けてのFAZマガジンのようにあまりにも鋭く真実を書いてしまうと誰も反論できなくなる。つまり、その新アルバムはピアノを習い始めたシナの四千万人の若者のための曲集で、その中で最も難易度の高いメンデルスゾーンの「糸紡ぎ」の曲でも、才能の無いピアノの学生でも弾け、嘗てのようなアクロバチックなピアノを弾かないようになったとだけ客観的な事象を書けば全て事足りる。一体ものを書いて糊代を稼いでいる者がその程度の綴り方も出来ないでどうしようというのだ。それにしてもデンマーク語の子音の朝鮮語のような音やシナ語のようなイントネーションはなんだろう。スェーデン語の方がもう少し深く発音してこのような弾く子音は少ないように思うのだが、馴染めないと思った。
木曜日の文化欄にベートーヴェンフェストのニケ・ヴァークナーの発言が載っている。ミュンヘンの音楽大学長だったジークルリート・モイザーに関しての発言で、一度は学内での女性暴行で有罪が確定したピアニストにフェストに参加を計画したが、市民の反対に合って取り止めたことについてである。それどころか新聞に「職業女性は天使ではいられない」とMeToo運動を真っ向から否定するような発言をしていて、それについては撤回しない一方、フェスティヴァルのことを考えてもうこれ以上は発言しないとしている。要するにお友達のモイザーを擁護しているのだろうが、この優柔不断な態度は全くよくなかった。音楽関係でも歌手のエリザベート・クールマンなどは、指揮者のグスタフ・クーンの復帰を強く糾弾している。そしてドレスデンのシュターツカペレにはガッティ―が登場する。
ヴァークナー博士のような見識があっても、やはりキャリアーなどとは全く関係の無い女性たちと同じで、また「使われるものの悲哀」などは全く分からない人なのだなと思う。MeToo的なポピュリズムとは異なるコンテクストで事象が見れないとすると、もうそれは仕方がない。ボンでの経営収支も悪くなっていて、何処となく黄昏感が靡く。そのように思うともう一人のパスキエ女史が昨年の「ヴァルキューレ」で最後まで拍手していたのにも拘らずもう一つ冴えなかった表情を思い出す。何か不満でもあったのだろうか?
参照:
都市文化を再考する 2019-02-04 | 文化一般
いつも同じことの繰り返し 2017-12-07 | マスメディア批評
放送管弦楽団あれこれ 2019-02-09 | 雑感
私にとって、それは神だ 2017-11-27 | アウトドーア・環境