新聞に木曜日の初日の評が載っている。「再び街にオーケストラがやって来た」とはじめている。その旨は、「熱く音楽をする者と聴衆がある定められた方向へと結びつく音楽を提供するという意味においてだ」としている。そしてシェーンベルクの演奏に関して、「ペトレンコが凄い集中力と身体を制したところでやって見せたもの」をジャーナルしている。
「インタヴューを拒絶するだけの身体的な限界となるもので、最初の子守唄のような微小の波からの経験したことの無いような動きで ― 動きが無ければ音楽ではない」と書いて、「それでも技術的に欠点なく、指揮台の人間の意思を伝播することと、実際に音楽をして天上で心身一体となることはまた異なる」としている。要するにミュンヘンのようにはまだ行かないということだ。
チャイコフスキーに関しては、「やや通り過ぎたヴァルツァーや空回りした二楽章や苦行のような始まりよりも最後のフィナーレのファンファーレの力強いアッチェランドの方が印象に残った」としていて、全く私と同じ感想だ。この記者がペトレンコを追っているならば、三日目でも私と同じことを言うだろう。そしてこのフィナーレの解決を「独語では表現の難しいFull of himself」としている ― インタヴューでの「影の無い女」言及に相当するか。
それでも面白いのは、「デジタルコンサートホールと熱心なツィッターのお蔭でベルリナーフィルハーモニカーがグローバル世界市場で位置を築き、そして欧州に、その所謂メインレパートリーに戻ってきた。」としていることである。これはどいうことかと言えば、伝統的独配置の音楽とシェーンベルクの言う独音楽の優位性が、ストリーミング技術などで世界に伝播されるということでもある。楽団が熱心に呟きをしているのも、フェースブックよりも力を入れているのも知らないが、SNSとせずにツィッターとしたのは興味深い。
嫌われることを臆せず書くならば、せめて音楽ジャーナリズムというならばこれぐらいのことは書きなさい。日本語でこの程度の新聞評も読んだ記憶が無い。だから金だけ自由になるようなあまりお利口そうでもない聴衆を増殖させるだけなのだ。
土曜日にミュンヘンの劇場からアンケートが入っていた。ドイツ語の質問だったから、国内向けのメールだったのだろう。先着500名から抽選で、国立管弦楽団ツアー写真集を10名様に、また見学ツアーの券を全回答者の中から20名様にということで、メールが入っていたのが9時過ぎ、答えたのが12時過ぎだったから先着に乗り遅れたかもしれない。書いてあった通り15分ぐらい時間が掛かった。この12カ月に関する質問は多岐に亘っていたが、それまでの最初の訪問時期、そしてオペラなどジャンル別の訪問回数、またその訪問理由、その他の劇場やフェスティヴァルのリストアップや ― バーデンバーデンの劇場をオペラ劇場として書き加えておいた ―、車で出かけて車で帰ること、ガイダンスの参加やその評価、また五ユーロでの椅子予約の利用可能性、字幕の評価に、クロークやお客様対応窓口の利用、またプログラムや会場案内の評価、レストランの評価などに答えた。その他自身が水準以上の見識があるかなどの自己評価なども興味深かった。
参照:
Ein Athlet beim Wiegenlied, Christiane Tewinkel, FAZ vom 9.3.2019
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
フランクフルトにやってくる 2019-03-09 | 音
「インタヴューを拒絶するだけの身体的な限界となるもので、最初の子守唄のような微小の波からの経験したことの無いような動きで ― 動きが無ければ音楽ではない」と書いて、「それでも技術的に欠点なく、指揮台の人間の意思を伝播することと、実際に音楽をして天上で心身一体となることはまた異なる」としている。要するにミュンヘンのようにはまだ行かないということだ。
チャイコフスキーに関しては、「やや通り過ぎたヴァルツァーや空回りした二楽章や苦行のような始まりよりも最後のフィナーレのファンファーレの力強いアッチェランドの方が印象に残った」としていて、全く私と同じ感想だ。この記者がペトレンコを追っているならば、三日目でも私と同じことを言うだろう。そしてこのフィナーレの解決を「独語では表現の難しいFull of himself」としている ― インタヴューでの「影の無い女」言及に相当するか。
それでも面白いのは、「デジタルコンサートホールと熱心なツィッターのお蔭でベルリナーフィルハーモニカーがグローバル世界市場で位置を築き、そして欧州に、その所謂メインレパートリーに戻ってきた。」としていることである。これはどいうことかと言えば、伝統的独配置の音楽とシェーンベルクの言う独音楽の優位性が、ストリーミング技術などで世界に伝播されるということでもある。楽団が熱心に呟きをしているのも、フェースブックよりも力を入れているのも知らないが、SNSとせずにツィッターとしたのは興味深い。
嫌われることを臆せず書くならば、せめて音楽ジャーナリズムというならばこれぐらいのことは書きなさい。日本語でこの程度の新聞評も読んだ記憶が無い。だから金だけ自由になるようなあまりお利口そうでもない聴衆を増殖させるだけなのだ。
土曜日にミュンヘンの劇場からアンケートが入っていた。ドイツ語の質問だったから、国内向けのメールだったのだろう。先着500名から抽選で、国立管弦楽団ツアー写真集を10名様に、また見学ツアーの券を全回答者の中から20名様にということで、メールが入っていたのが9時過ぎ、答えたのが12時過ぎだったから先着に乗り遅れたかもしれない。書いてあった通り15分ぐらい時間が掛かった。この12カ月に関する質問は多岐に亘っていたが、それまでの最初の訪問時期、そしてオペラなどジャンル別の訪問回数、またその訪問理由、その他の劇場やフェスティヴァルのリストアップや ― バーデンバーデンの劇場をオペラ劇場として書き加えておいた ―、車で出かけて車で帰ること、ガイダンスの参加やその評価、また五ユーロでの椅子予約の利用可能性、字幕の評価に、クロークやお客様対応窓口の利用、またプログラムや会場案内の評価、レストランの評価などに答えた。その他自身が水準以上の見識があるかなどの自己評価なども興味深かった。
参照:
Ein Athlet beim Wiegenlied, Christiane Tewinkel, FAZ vom 9.3.2019
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
フランクフルトにやってくる 2019-03-09 | 音