Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

細やかな音楽的表現

2023-04-27 | 
新制作「影の無い女」の一幕を流していた。最初の皇帝の登場とその狩りでの仮初のところの演出を見落としていた。皇帝の動機には最後に剣の動機が付いているのだが、それを仕手役の女の子にストックを手渡すところがあった。そこは何となく観ていたのだが、望遠カメラでみると手渡してから女の子がそれを抱きかかえるようにしているのを見落としていた。

リディア・シュタイヤーの演出は思ったよりも細かい、音楽的以上に既に鷲と鹿の下りに入っていて、剣と歌って動機が流れるのだが、二幕では突くがここで既に内容を語っている。その直後に皇后が登場してタリスマの歌となる。

音楽的な枠組みを上手に演出として細やかに表現している。同じ部分をミュンヘンでのヴァリコフスキー演出と比較すると、皇帝を歌っているボートの歌の内容はあまり伝わらないのにも関わらず、舞台上ではモノローグとして動きがない。

まさしくその管弦楽も適当に荒れてはいるのだが、色合い的な所でしか表現出来ていない。確かにその後の染物屋の情景を含めて「魔の山」におけるこちらとあちらの世界を行ったり来たりする感じは出ているのだが、音楽を裏打しているかどうかは疑問点が多い。

歌手も今回のと比較するとコッホの声は以前の方が艶があるが、その歌の作り方が今回よりもより焦点が集まっていることで、若干歌い過ぎの感が強い。他の配役はやはり今回の水準はとても高い。ペトレンコ指揮の座付き管弦楽団の演奏も可也ウェットである。

ペトレンコが二度とない上演というのもこれだけの演出がならないと言う事が一番大きいのだろう。やはり現時点では、ミュンヘンの「戦争と平和」におけるチェルニコフ演出を押さえて評される可能性が強い。

何度も言及しているようにこうした内容を共有可能でない社会に生きていても仕方ないという判断を改めて認識させられた制作であり体験であった。ヴァルコフスキーの演出は魔の山の別枠を持って来て、抽象化することで影絵のように投影させているので余計に理解を困難にしている。

さて、シーズンでもう一つこれに対抗可能なのはシュトッツガルトの新制作「アシジの聖フランシスコ」でしかないと思われるが、しかしこちらは野外などを使う音楽劇場を展開するもので、如何にそのオペラではないその作品の本質を示すことになるのかに期待が向かう。

演出のアンネゾフィーマーラーは、昨年のヤーマイでハースの三部作の一つ「トーマス」を演出して好評であった。難しい素材程注目される仕事をしているが、今回は野外音響や大編成の楽団を如何に指揮のエンゲルと共に効果を出していくのか、とても大掛かりな企画である。



参照:
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般
コメント
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