言葉は良くないが、教皇ベネディクト16世はまたもや袋叩きにあってしまった感がある。それ故に、伝え聞くところによると昨晩のTVメディアなどは、ヴァチカンの反応を受けて、教会に肩を持つ報道が多かったようだ。
今回の破門解除の件は、ヨハネ・パウロ二世の命のもと、伝統主義一派ピウス十世の会を起こしたルフェーブル司教に対して、1988年春問題の四人に対する祝福を思いとどませるようにとの説得が受け入れられなかったのが大司教ラッツィンガー本人であることを聞くと、教皇にとってもヨゼフ・ラッチンガーにとっても如何に宿命的な事件であったことかが知れる。
2005年78歳での最高位への就任後の夏には、
ハンス・キュンク教授との再会に続いてピウス代表である
ベルナール・フェライとスイス西部で会見しており、今回の破門解除もフェライ氏の宣誓書が根拠となっているよと言う。ヴァチカンのスポークスマンは、問題のウイリアムソンの「主義主張」に教皇は関知していなかったとしているが、「伝統主義」のその背後にある考え方は知らない訳がないとするのが大方の見方である。
批判後の水曜日には、教皇は「ネロの5年間」の立役者
哲学者セネカとパウルスの話を披露したと言われるが、それは今起っている事象に関する示唆に富むお説教であり、神学的な継承の説明であり、大変興味深く尚且つ教育的な内容であったに違いない。
この際とばかりに、「普通の人」に戻れるものやらどうか知らないが教皇の退任や、本の執筆ばかりに勤しむ教皇の管理能力までが問われるとなると、その著書のファンである者としては気の毒になってしまうのである。
そうした個人的な憐憫の感情以上に、保守的な心情を持つ多くの者が親近感を抱いて希求していた権威の上に立つ伝統主義自体が「表面に出てくる途端に恐ろしく脆弱なもの」であり、それを「原理主義者然として崇める輩が如何に馬鹿に見えるか」と、今回気付かされたその文化的な意味合いは、「その母体である堅牢な筈のカソリック教会が実はシスマに苛まれていたことが内外に示された」こと以上に大きいのではなかろうか。
解除された四人の実際の公的な教会内での職務はウイリアムソンを含めて保留されているようだが、これら伝統回顧主義派が為したことは「教会権威の矮小化」でしかなかったのは、どこかの国の安物の首相などの「美しい国」の主張の張りぼて化にも似ていて笑えない。
そしてユダヤ人協会の方は、自らがそうした伝統主義の上に立って初めてアイデンティティーを発揮できることを熟知しているので、ローマンカソリック教会には理解がある。寧ろ、「病気」の伝統主義者と呼ぶプロテスタント協会代表のフバー牧師らの考えはユダヤ原理主義とは相容れない。
信仰の自由の「自由思想」、教会の仲間の「公平」、宗教間対話の「博愛」を、永遠の教会の敵と見做して、ユダヤ人からフリーメーソンを越えて民主主義までを、神無き現代に屈服するものと考えるのがこれら伝統主義者と表される。*
要は時間は不可逆であって、またこうしてバイエルンやシュヴァルツヴァルトやフランスのイタリアの如何なる片田舎の農夫にも、その「伝統の権威」についてそれ以前には生まれなかった一顧を与えるに違いない。これは、ヨハネ・パウロ二世からヨゼフ・ラッチンガーへと引き継がれた旧教の近代化への思いに他ならないようにも思われる。
一方、今回の問題を現世の日常政治に取り込んだアンゲラ・メルケル首相に対しては賛否両論あるが、この女性政治家が東独の社会主義国家の偏屈なプロテスタンティストであった事を有権者の前にあからさまにした価値は大きい。彼女の発言の主旨やその目的に関しては、「ナチスドイツの反省」を国の是としてまた外交手段として最も有効に活用して来たドイツ連邦共和国の首相として正しいとされ、また水曜日には選ばれたフライブルク大主教
ロベルト・ツォリュッチュに電話して自らの「懺悔」とすることで細かな配慮をしている。その反面、教皇に対する要求という形で、教会とドイツの政治的力比べをビスマルク宜しく試したことは、ある意味ヨゼフ・ラッチンガーが取る修辞法にも似ていて、対外から見るとどちらも「典型的ドイツ人風」と映るに違いない。
ドイツ人の教皇には、指先感覚の対応が求められたが、一連の教皇の言動にはその背後に即物的な思考態度があって、殆どプロテスタント的と言っても良いかもしれない。やはりポーランド人の思考態度が良く出ていた前任者の方が世界組織を牛耳る任には適当で表面上は津々浦々までなんとなく分かり易く映ったに違いない。
さて問題のウイリアムソンへの訴追は、スェーデン放送のインタヴューがレーゲンスブルク郊外で行われたことから、ドイツの国内法に問えると言うことなのだが、早速依頼を受けたドイツの弁護士は、「本人がドイツでは放送しないと言う条件を付けて語ったので、公の場での発言に値しない」として戦うようだ。あまり反論の根拠は強くないように思われるが、有罪となってもリチャード・ウイルソンには前科がないので罰金刑で済むだろうと言われている。
もちろん、ああした人間であるから、教会から求められている「誤解のない弁明」にて、過去に繰り返した前言を総て撤回できる筈もなく、また何を言い出すか分からないと、これまたどこかの自衛隊の頭のような按配になって来た。秘蹟ではないが、表に出せば出すほど曝されば曝されるほどありがたな効果はなくなって、ただ呪われるだけなのである。
参照:
Der Brueckenbauer, Daniel Deckers*,
Der Papst und Bischof Williamson, H.J.Fischer,
„Roms Vorgehen passt ins Bild“, Wolfgang Huber, FAZ vom 6.2.2009
シスマの危機に脅える教会 2009-02-05 | 歴史・時事
純潔に熱く燃えるピュイス 2009-02-08 | マスメディア批評