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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

果ててしまった金曜日の夜

2011-02-12 | 生活
腕がパンパンに張っている。水曜日に続けて十分に登った。疲れが残っているのがいけないのかと思ったが、同じように水曜日の疲れが筋肉痛として残っていると聞いたので安心した。やはり、完全燃焼したあとでは、回復にも時間が掛かるのは当然なのであろう。それでも二人とも本日も完全燃焼させたのは天晴れである。

思いがけなく一人が先に来ていて、パートナーが誰もいないので帰ろうとしていたところを都合よく出会えて、三人で三時間みっちりと登った。オーヴァーハングの割合は少なく、水曜日のような完全な庇はなかったのだが、それでも完全に果ててしまった。

力自慢の元スキー選手も流石に水曜日並みの力は残っていないのを確認した。当然の事ながら、アルプスやビックウォールにおけるクライミングはそうした力配分が重要であるので、出来る限り力を温存して登る練習をしているのである。

今日の課題はクローズの姿勢による省エネ登攀であったが、中途半端な垂壁では反対方向にクローズしてしまうと、今度は体勢を入れ替えるときに余分な力を消耗してしまう。あくまでも予めその向きを予期して動かなければあまり意味がない。また、腕を伸ばして、体を壁面に突っ張る方法も適材適所で使うべきであり、特に登攀距離が長くなった場合はたとえリュックサックが無くともその方法がいつも勝れているとは限らない。オープンの姿勢で登る場合は、垂壁に押し付けた下半身とは反対に上体を壁から離すためにはそうした腕使いとはならないので、まさにその差異が技術的なポイントであろう。逆にオーヴァーハングの時の腕の伸ばし方とクローズな姿勢を上手に使いこなすことが課題であったが、もう一つまだ身についていない。

筋肉が上手くクールダウン出来ずに熱に魘されて、夜が明けた。久しぶりの筋肉痛である。
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郷に入るユンカーの領地にて

2011-02-11 | 雑感
夢とも妄想とも限らないものをみた。最近農に帰ったと言う人のお宅に招待されて行く。お宅は石造りかコンクリートの打ちっ放しか分からない巨大なはものだった。エレヴェーターなどが完備している大きさに驚くと同時にそのライフスタイルにそれ以上に驚いた。

石の壁の暗く冷たい内側にあるものは外とは異質のひんやりした空間と、まるで中世のような簡素な生活であった。そこに並ぶのは父親譲りの大漢和辞典とか古く使い込んだ本がこれまた道具棚のように並んでいるのである。そこまでみて、近代的な研究室風でも反面埃の被った資料室風のあるあまりの殺風景な書斎に違和感を感じていた。

そして何より驚いたのが一見近代風の厨房であった。奥さんが調理をしていた所に入って行きながら、とても素晴らしいキッチンですねと声を掛ける。如何にもステンレスを多用した近代性をジックリと見ると、火力は全て炭であり、その殆ど超近代的な光景はある種の合理性に満ち溢れていた。なぜかグリルが高い所に設置してあって、目の高さ以上の場所で炭がいこっているのである。「これは美味しそうに出来上がりますね」と感心しながら、厨房を辞去して豪邸案内が続く。

車に乗って邸内を案内される。そこで見た光景は、丁度嘗ての神戸市葺合区の阪急から山の方を望むとそこには山の麓まで草原が広がっているのであった。それがこの地主の所有地であり、そこでは酪農などが行われていて、話をしている右手には養鶏場か何かがあり、落ち着いた生産がそこにある。日本離れしており、合衆国の様でもないが、フランスの様でもある、一体何処だろう。

目の前に放牧されている牛や羊、そして山際での鹿などがあの調理場で料理されていると晩餐を楽しみにしていると、これが自らの管理の下での自給自足ではなくて自営自足なのであると思いつく。そのように暫く考えていくと、青髭公の領地でのエディートではないが、小作農がそこで働いているまるで中世以前の豪族そのものの生活であることに気が付いて目が覚める。



参照:
コメでは食えん話 (かわうそ亭)
進化という自然環境の神秘 2010-07-03 | アウトドーア・環境
批判精神無しに何を語っても 2010-06-04 | BLOG研究
芸術を理解するには趣味が肝要 2010-05-15 | ワイン
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岩場には摂理があるのだから

2011-02-10 | 雑感
水曜日のクライミングである。カレンダーを読み間違えていて今週はお休みかと思ったのが、それなりにこなした。なによりもオーヴァーハングにおける技術的な課題が具体的に出ていたことが成果であった。

この課題は、シーズン前に靴の選択などで考えていたこととは若干違うのであるが、最終的には戸外でオーヴァーハングを登る場合には同じ課題であるように考える。具体的には、クローズの姿勢を使うことである。室内においてのオーヴァーハングが容易なのはまさにこの点にあって、大げさに言えばまるで杭が壁から生えているようなもので、そうなれば誰でもクローズの体勢で、まるでクレッターシュタイクのように登れてしまうのである。しかし現実の岩壁の屋根においては、容易に横から足を架けるような特記は少ない訳である。自然の岩場の摂理は必ずどちらかの方向へと切り口の摂理があるので、それを上手く使うには上のクローズの体勢とそれに向いた靴と言うことになるのだ。

序ながら、シュタイクアイゼンを使った岩登りや氷壁の場合は当然の事ながらオープンな体勢が基本となる。また基本岩登り術においては出来る限りオープンな体勢で登ることが、手掛かりや足がかりを見つけ易いとして推奨されていたので、どうしてもそうした技術を身につけている者にはこうしたクローズの姿勢は意識して練習しないと習得できない。まさにそこが従来のクライミング技術とフリークライミング技術の重要な差異であろうか?

そのようなことをなんとなく感じていると、目の前で如何にもそれらしい親仁さんが、あんちょこ「神の手」と呼ばれるようなフィフィと呼ばれていたフックを使ってオーバーハングの下で休んでいたのには驚いた。なるほどあの手の親仁は鐙を使ってその昔はそうした場所を登っていたのだろう。
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私小説的な環境認識の把握

2011-02-09 | アウトドーア・環境
これほどに穏やかな二月も珍しい。今日もそんな話になった。私自身、何時のことか、それ程前でない二月に外で食事をしたくなったことがあると思い出した。このBLOGにあることどうか?

最近どうも昔話のような「私小説」めいたことを考えるが、一体それはどうしたことかと考えていた。年齢とか何とか以前に、時間の前後とかそうしたものに大変敏感になってきたのだろうか?要するに時間感覚が以前よりも吟味されてきたことであって、それ自体は誉められても責められるものではない。

一つには、十何年ぶりかで手帳を使うようになって、中期的な先の計画を今年は立てるようになったことも、こうした環境の捉え方を顕著に示している。近過去、過去、近未来などと、計画通りに行くかどうかは別にして、先を見ることは同じように過去を見ることでもある。むしろ今までなぜこうした感覚無しに日常を生活してきたかが疑問であり、我ながら興味深い。

床屋でも寒の戻りの可能性の話題となったが、精々二週間程度のことだろうとなった。またまた典型的な「私小説」話題である。
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肯定に満ち溢れる朝食の悦び

2011-02-07 | 料理
昨日宣言したように、朝起きして、森に出かけた。まだまだ明けるのが遅いので、朝起きが億劫である。それ以上に、覆っている霧の上の青空が気になりながらも、気温は氷点前後で今ひとつ活動的にはなれない。更に慢性的な疲労感が月曜病と共にやってくるのである。

パン屋に寄ってからも、入れる筈の気合よりも、何とか手軽に済ませてやろうとする気持ちの方が強く、実際に短いコースを登って降りてきただけである。それでも、登りの後半を駆ける事が出来て、前回は歩いたことを考えれば、それなりに十分な負荷を掛ける事が出来た。

それにしても心肺機能の疲れと言うか、重たさが気になっていたので、本当に走り通せてそれなりの最高速度同タイムで駐車場に戻れて、更に自信がついた。体調不十分のときでも、ある程度の運動能力を発揮できるようにするのは一つの重要な目標である。

先週の金曜日の室内クライミングは二時間ばかりの短いながらも集中した運動だったので、その後に疲れが残っていた。特に肩などの上半身は、思いがけずに酷使していた下半身よりもあとまで疲れが残っていたのである。坂道を重めの靴を履いてジョギングすると、上体を強く鋭い腕の振りで上手に使う必要があるので、駐車場に降りてきたときには肩こりが完全に解されていた。

運動の疲れを他の運動で解していく感覚は色々なトレーニングをするようになってからなんとなく実践してきているが、全身疲労が溜まらない範囲でそれが出来るようになると素晴らしい。それでも、やはり五分も走るとやはり辛い思いもある訳で、強い動機付けがないとこうした鍛錬は続かない。

春らしくなってきたが、まだまだ謝肉祭には一月もある。もう暫くはなかなか寒さと生温さの間で体調維持が難しい。今晩は、肉屋で取ってきた煮豚のほっぺたや腎臓で、もう一息吹き込みたいのである。またストラスブルク風鴨のリレッテを購入してきたので、これを塗ってまた新鮮なパンを楽しめるのがとても愉悦の想いなのである。

朝食の喜びは、何か他のものとは異なる肯定的に満ち溢れているのである。いつもの月曜のことで忙しいような気持ちだけであまり仕事は捗らなかったが、こうした朝は希望に満ち溢れていて何よりもである ― それでもこうして夕飯の豚煮の前にピノグリとおつなデリカテッセンを愉しんでも何一つ否定的なものもないのである。

昨年の今頃書いたものを読むと、今年とは全く違う昨年だったことを思い出す。似ているのはこの時期特有の心理的な弱い一種の欝であり ― やはり氷河での新雪スキーもしていないので強い日差しを長く浴びていないヴィタミン不足などの影響もあるようだ、十一月のそれを今年はあまり感じなかったのと反比例しているかもしれない。それでも少なくとも新しい靴を買ってから一挙に生活がスポーティーになってきた。冬休み無しのフリークライミング鍛錬の成果もあるのだろうが、こうなれば未だ嘗てなかった状態で本格的な春を迎えるのが楽しみなのである。
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幸福と感じるライフスタイル

2011-02-06 | 生活
体力トレーニングを本格的に行うようになって、それまでとは全く異なるようなことに気が付くようになった。何よりも十台の時との比較で、なぜ今更という考えがいつも思い浮かぶのだが、そのことを三十代前半の者に話してもなかなか理解出来ないようだ。

自分がその頃どのように考えていたかといえば、やはり気の向くままに飲み食いをしていて、全く体力を強化するとか、健康を維持するとかは考えていなかった。要するにコンディションは通常に生活していれば良くも悪くもそれでよいと感じるのだろう。

しかし、私自身の場合は太り過ぎによる尿の糖化からのダイエットに踏み切った十年であったが、それによって失われた十年間のようなものを今でも感じる。もちろんのこと、食事療法によって出入力を抑えなければいけない先十年間と、最大限血圧が上がってもはちきれるまでハイテンションで酷使してやろうと思うこの先十年間とはどちらが幸福なライフスタイルかは分からないが、少なくとも今の時点ではとても勝ち組の感が強い。

先日金曜日は約十年上の町医者と行動していたが、彼と同じように精力的な生活が出来ているかどうかは正直自信がない。元ドイツアルペンスキー滑降のナショナルユースチームの彼の体格に匹敵するだけの体力や気力があるかどうかはなんとも自信がないのであるが、日本に住んでいたら絶対感じなかったような何とかしなければいけないというような緊張感を幸か不幸か持ち得ているのである。

指揮者で現在病上がりの小澤征爾が、死の滴るような牛肉をかぶりつくような音楽を最後までしたいと語っていたことがあるが、氏は一体どの年齢でそのように語っていたのだろうと考える。如何に指揮という活動がスポーツかという事を物語っているのだろう。

今日は機構が良かったが結局室内で過ごした。明日の朝にでも気合を入れたい。
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先ず体感することが一番

2011-02-05 | ワイン
身近に実験屋さんはいる。しかし、自分自身だけでなくて、親戚に手を動かして生計を立てている者は余り多くない。先祖に大分遡ってもそうした者は殆ど見つからない。外科医でも一人は外科を早くに止めてしまっている。手先も器用な親戚は少なくないが、どうも自分でこつこつと何かするよりも人にやらせて文句を言うタイプの人間性が共通のDNAにあるように思われる。

その際たるものがワインの評価とか試飲とか呼ばれるもので、これは自分が何一つ働かなくても、飲む量が増えれば増えるほど文句が増えていくのである。さらに、多くの場合は目で判断したりする職人的なものも、アルコールとして全身で判断する基準の精度が上がるだけでなくて、その背後に積み重なっている技や匠と自然の織り成す調和の真髄を見極めようとどうしても技術的な背景にまで立ち入ってしまうのである。どのような分野でもそうであるが、アマチュアーの恐ろしさは好奇心だけで他の全ての無関心な環境を取り去ってその核心へと迫り没頭しようとする動機付けが強いことである。

2010年のリースリングはまれにみる数十年ぶりかの高い酸度で、その酸を如何に克服したかでそのワインの値打ちが決ってくる。それに関して、「ドッペルザルツ」という言葉が昨年秋ほど聞かれたことはない。2008年度も酸の量が多くて何らかの手段を講じたワインは少なくなかったであろう。更に冬の冷え込みがあったという理由で、中和した塩が瓶詰め前に樽の中で落とされた事実を聞いている。

そして、その「ドッペルザルツ減酸法」と並んで、「通常の減酸法」と呼ばれる方法が別けて語られていることに注目した。そしてその違いや特徴の技術的な解説をネットで見つけて読んだ。双方共に共通するのかカルシウムであり場合によってはカリウムが中和剤として使われるようで、両者の効用と効果は異なっていて、リットルあたり七グラムのカルシウムで一グラムの酸を中和することになるのだが、その酸も「通常の場合」はワイン酸を中和する。「ドッペルザルツ法」の場合はワイン酸と同じだけリンゴ酸も中和する。

実際の作業も、通常の場合はカルシウムの中にワインをポンピングして、十分に反応させるようだが、ドッペルの場合はそのままワインの中に投下することになる。その後のフィルターリングで酒石として適当な時期に取り除かれないと、再び塩との中和均衡が逆行する。

しかしこの差異を十分に想像を働かせて考えれば、我々が新鮮味として感じている酸は往々にしてリンゴ酸であり、逆にこれは果実の熟成で十分に分解されなければいけないものなのである。先日もナーへのリースリングを辛口に批判したが、この酸の分解こそがリースリングに深みを与えるものであって、清潔感の溢れる辛口を醸造しようと思って腐る前に早めに摘み取るとこうした「浅造りのワイン」になるのである。

つまり、本来ならばリンゴ酸を中和する以前に十分に自然の力で酸を分解しておかなければいけない。しかし、昨今の温暖化で春が早くなり、夏から秋にかけての果実の健康な熟成が益々難しくなりラインガウなどの一部地域では嘗ての名うての地所は事実上その歴史的価値を失いつつある。

酸の深みというものがこの過程で生まれるとすれば、そうした清潔ぶった辛口造りのリースリングに瓶熟成の可能性などはなく、もっぱら早飲み対象商品となるのである。一部には誤解する向きもあるようだが、グローセスゲヴェックスは果実の糖比重を抑えてあるので、味噌糞一緒な甘口のように糖化を高めるだけに葡萄を放置しておくのとは異なり、出来る限り貴腐を抑えて、尚且つ酸が十分に分解されることを目指して栽培される。要するに、甘口においては数年に一度の深い熟成がグローセスゲヴェックスでは毎年のように要求される。

さて、ここまで考えると、ドッペルザルツを使用した更なる減酸過程の長短以前に、カルシウムが溶けることで生じるリースリングの石灰臭さはある程度避けられないだろうと思われる。そもそも石灰土壌のそれがどのように味に反映するかは、全く体感をもってのテロワール感であって、自然科学的な観察ではない。しかし、白ワインのその土壌の反映度をもって盟主であるリースリング種の場合、どうしても石灰土壌の場合は角が落ちて経年変化で益々丸くなってつまらないワインとなることは経験として知られている。

こうした点を総合的に判断すると、2010年のリースリングの試飲も春と共にゆっくりと近づいて来ているが、三分の一ほどの「減産」となったその質は、なるほど酸の量感がある限り長持ちするだろう。更に2008年のあの荒い酸とは異なり、その質は素晴らしいようなので、対照的に線の細やかなワインなども期待できる。同時に、石灰混じり感があると、丸い酸が感じられることから、早飲みの清涼感も大分期待できるのではないか。一方、量を減らした分高額商品での質も吟味しているだろう。

好事家の中には、良いリースリングに「酸」を筆頭に挙げる向きもあるが、上述したような考察の果てには、「その量以上にその質が尚一層重要」であるとの見解を共有するのである。なるほどそうしたことを全て経験したあとでも、その吟味の特別難しい甘口を今か今かと寝かしておいて、もし幸運にも自らの臨終前に開けて漸くそれが楽しめるとなった時には既に取り返しが付かない地獄行きの娑婆の手土産となる。

最後に付け加えておくと、こうした事象を全てどこかの間違ったテキストで若しかするとこの文章で、「ドッペルザルツ減酸法を使っている2010年産は丸くて駄目」とか短絡に読解して考えるのはまさにスノビズムの極致である。少なくとも虚心坦懐に思考する者はそのようには考えないだろう ― しかし自信が無い醸造所の中にでも減酸と言うことで表情を曇らす醸造所も少なくはない。そして何よりも先ず自分で体感することが先決なのである。そこから少しづつイメージを固めていけばよいのである。
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情報の共有と議論の為所

2011-02-05 | 雑感
昨晩車のラジオで聞いた。連邦共和国の有権者の民主化への支持と安定維持への懸念は半々ぐらいで、僅かに民主化へのそれが上回っているぐらいらしい。エジプトのことであるが、いずれは中東の安保となっていく重要な問題であることは皆気がついている。

こうした民主化への動きに懐疑的なのは、そうした「隣人」をもつドイツに住んでいるからだろう。憲法でも、政体でも、法律だけでも成立しない民主的な社会の難しさを重々知っているからでもある。少なくともジャーナリズムさえ育たない社会の市民の意識とは大きく異なる。

日曜日でのハイキングでも色々な話が出たが、社会の各層に合意された基準と言うものさえなかなか提示不可なものであって、その土台には自由な議論しかないわけで、民主化即ち自由な論議でしかないのである。折からのラジオが法王の訪独の話題からの討論会が流されていたが、この問題ですら当事者が十分には議論できない問題を内包している。

その早朝ノイシュタットの駅で集まっているときに、マンガ本を扱っている店のガラスに、セーラー服から大きな乳房をはちきれんばかりに描いたものが見えた。我々国鉄を利用しない者はこうした日本でもあるようなグロテスクで破廉恥な図柄は一体なんであろうか?これを表現とするならば、そうした表現しか出来ない文化の問題であろう。ああしたものが公共の目に触れるような、まるでその生誕地である日本であるかのような状況には断固として反対していく所存である。

そもそも、日本食が健康食などと言う誤った宣伝がなされているが、それが日本人の平均寿命から演繹されているとしたなら、統計上の誤差ということもあるが無限大に伸びているような戸籍までそこに加味されているとすれば、その根拠に疑いを抱かずにはおられない。日本食の内容をつぶさに観れば決して推奨できるようなものではなく、なるほど肥満は少ないかもしれないが、日本の老人あまりにも弱弱しい。

世界での日本食ブームで日本の農産品が輸出に転じるなどと言う考え方は真っ赤な嘘である。
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二月中旬も見えてくる週末

2011-02-03 | 生活
明日は金曜日でもう週末である。月曜日一日遊んだためか、今週は短過ぎた。二月も既に中旬の予定で動いているので恐ろしく短くなりそうだ。凍てついた日はあっても長続きしないので、これも気に食わない。

早朝走ろうと思ったのだが、雨が降っていたので、断念した。午後から夕方にかけて一時日が出たので、思い切って荘重にする予定だったことを夕方にこなした。

クライミングはしていたが、水曜日はお休みになって、体が鈍っていたので、いつものコースを降りてくるのもそれ程楽ではなかった。それでも軽く汗をかいたので心理的には晴れやかとなった。

これで明日金曜日を快調にこなせる下準備が出来たようなものだ。一本残っていた2006年産のシュペートブルグンダーをあけて、先日から作ってあったチリコンカルネをゆっくりと愉しむとしよう。
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PCに秀でたオーナーの自誇自縛

2011-02-02 | 試飲百景
お土産にナーへのワインを頂いた。態々出かけて購入してきたらしい。そのワインの感想などを読んでも、必ずしも評判の良くないテッシュ醸造所のものである。

口当たりや香りなどは、試飲して選んで来たものであるから、なるほどそれらしきものがあり、夾雑感も少なく、ここで批判をして欲しかったものだと分かった ― そもそも私は人を非難したり叩いたりするのを好まない。特に趣向品など全く個人的なものであり、それを批判するのは憚れる、だから自分では買わない悪いワインなどを批判する趣味もないので、人から頂戴しないとこうして批判する機会も無いのである。

先ずその夾雑感の少なさはステンレスを上手く作っているので、長点であっても欠点ではないのだが、味として如何にも分離したようなまとまりのなさがあって、樽の混ぜ合わせなどの恣意を強く感じた。

それはこの醸造所がラベルの色合いやそのワインの出し方で、非常に勝れたパブリックコミュニケーション術を会得しているオーナであることは周知である。さてそれがどのように反映して、我々飲み手に影響を与えるかである。そこが最大の関心であった。

どうも試飲の席で、そうした土壌の違いやワインのキャラクターの差異について口頭でも改めてレクチャーがあったようだ。なるほど初心者がそうしたことに関心を抱くためには必要なのかもしれないが、好事家の審美眼を養うことにはならない。同じようにただ色分けをしただけでグーツリースリングを青色で出して、尚且つそれ相当の料金を取ろうとするのは解せない。

そもそもなぜこの価格帯で、ナーへで13%もアルコールを上げているのか?それでも新鮮さがあるところを見ると、加糖している疑いが強くなる ― 色が深めなので酸に手練手管を用いているのだろう。実際、その健康ぶった葡萄は明らかに早摘みであって酸が十分に分解できていないので鋭く危険で、深みが全く無い。更に悪いのは、清潔感と我々の胃壁の侵攻が取引されていることで、この酸は殆ど不良品との限界粋にある ― 酸酸酸とか言っても、その質を吟味しないのでは何ら意味がない、グラスの液体の色とか専門家ぶったことを言うならそれぐらいのことは理解しないと恥ずかしい、最初からそうした通ぶったことを言わないに限る。所謂、危険な酸で辛うじて味のバランスをとっているワインとなっている ― 私なら試飲のときに次のように質問していただろう、「この葡萄の摘み取りは何時でした?」。

今時、グランクリュでも葡萄糖度95を越えないことが、エレガントなそれを拵える基本であることは部外者だって身をもって体験している。なによりも、ラインガウでもない、こうした力の無い土壌でアルコールの高めのリースリングを醸造しようとする破廉恥さに呆れる。エレガントとか、繊細とか、酸の美しさとかには一切関係のない者なのだろう。そもそも高いアルコールは肥満と密接なかかわりを持っていることは十年以上前に経験済みであり、私がアルコール嗜好をやめてワインをいくらかは嗜むようになった所以でもある。

基本的にはスレート土壌の酸であり、味筋であるが、それをアルコールを高めて均衡させようとするところに、我々はPCとしてのコンセプトがいつの間にか商品の無理なラインナップ、そして不良商品の販売へと造り手側に影響していることを感じるのである。そもそもまともな地所も所持していないからこその苦肉の策としてのアイデアだったのだろうが、こうしたことよりもどうしたら品質の良いリースリングを醸造できるかを真剣に考えるべきであったろう。

折角のアイデアであったろうが、他の多くの二三流醸造所のように、化粧瓶やその他で商品を売り込むような醸造所の域を今後とも抜きでることはないであろう。そもそもそうしたことは、試飲する前から十分に推測できるようでないと、広大なドイツワインの市場からまともに上質のワインを嗅ぎ分ける力もつかないであろう。所謂、ゲテモノ漁りに陥るのである。

ワインを持ち帰るのにレープホルツ醸造所の箱を使っていたようなので、それを見たオーナーが驚いたようだ。それはそうだろう、本来ならば客層が違うのだから。



参照:
大馬鹿者たち-試飲百景 2005-06-18 | 試飲百景
厚化粧の顔厚忸怩とスッピン 2010-10-24 | ワイン
甘い汁を吸い続けた報い 2009-08-03 | ワイン
腐れ葡萄にその苦心を窺う 2009-07-30 | ワイン
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視点の相違を実感する視野

2011-02-01 | 雑感
日曜日に歩いたとき、ある村の話となった。今でも靴職人が集まる町で、当時から象徴的に百パーセントのカトリック率を誇っているである。そして1938年の選挙で、ドイツ労働者国家社会主義党に百パーセントの支持をした。その功績により、今でもベルリンにこの小さな村の名前がついた道が存在して、村にはヒットラー総統直々のその素晴らしいを賞賛するレリーフが存在するらしい。

そこでは突っ込まなかったが、カトリック信教とナチの支持とは必ずしも合致しないので、そのの職業などの過去からの特殊性がそうした背景にあったのだろう。そこには、戦後の連邦共和国の視点やまた逆になにか若干タブーめいたものを感じるのは私だけであろうか。だからそれ以上は話題としなかった。

視点の相違が、見えている光景を変えてしまう例では、フリードリッヒ王に因む雑食砂岩の岩峰を写しての写真の結果にも良く表れている。私などはどうしてもルート取りが気になって、日陰のルートに焦点を合わせるものだから、絞りが開いてしまって逆に光が入ってしまって醜くなる。

友人が写したそれは、逆にコントラストが奇麗に出て、素直にその場所の感じを上手く伝えている。話していただけでは全く分からないのだが、こうして写真を比較すると、その人其々に全く視点が異なっていることを改めて確認して面白い。

同じようにエジプトでの民主化運動は、そうした様々な世界中の視点が今やインターネットの発達によって、一挙に比較対照かできることが、こうした動きに繋がっている。今や、庶民の程度において、こうした行いが容易となって来ていて、先ずはそうした視点の相違を実感することで、その次には比較対照もしくは対話という統合的な視野を得られるようになっている。我々が想像していたよりも遥かに早く民主化というグローバル化は加速して達成されるに違いない。
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