Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

聴衆の一体感を再確認

2019-08-17 | マスメディア批評
いよいよ一週間を切った。ブランデンブルク門でのオープンエアーは来週の土曜日だ。天気予報からすると晴天となりそうだ。イヴェントが盛況になって欲しい。そこには色々な意味合いがあるが、出来るだけ多くの人が近代の理想主義をもう一度振り返ってみることは大切である。まさしくそこに古典文化の意味がある。ハイカルチャーである。

その前日にはフィルハーモニーでのシーズンオープニングコンサート、こちらも今後を占うとても大切な演奏会であり、先ずはDCHで中継を観て、その後ラディオ生中継を録音したい。今回は一度しか演奏されないので、生中継もアーカイヴも少なくとも映像はカメラワークぐらいが変わるぐらいだろう。

そこで週末にはお勉強を始めないと落ち着かなくなる。いつもここまで引っ張らないと始められない。再来週は週明けから出かけて三泊四日なので逆算して計画しておかないと片づけものも済まない。忙しい週末になりそうだ。

そうこうして新聞を見ると、なんと昨年のルツェルンの音楽祭のハイライト、キリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの二日目の演奏会の全編放送の予定が載っていた。どれだけ待っていたことか。当日はそこに居てラディオ生中継放送も録音出来ず、勿論TV放送は全く観ていなかった。しかし今年になって、ARTEでその中からユジャワンのソロのプロコフィエフの演奏がプロフィール番組として流された。そして今月になってラディオではハイライトとして、前半のみが再放送された。特にデュカ作曲のファンファーレからラペリの大名演を初めてマイクを通して確かめられた。これは音質も良かったので大喜びだった。今まで聞いたベルリナーフィルハーモニカーの生中継として断トツに素晴らしかった。そして残るはこれまた大名演のフランツ・シュミット作交響曲四番がどうしても聴きたくなっていた。

そして全編放送だ。既にMP4の期間限定オンデマンドとしてダウンロードできるが、残念ながら画像は美しくても音質が44kHz,96kBit毎秒であまりにも物足りない。そこで一縷の望みを繋いで生のストリーミングを放送時間まで待ってみることにした。生憎同時刻にARTEで他のオペレッタが放映されるが、こちらはMP4で全く構わない。

肝心の「ラペリ」の指揮振りも前からは初めて観たが、いい指揮をしていた。そして私の並びの人のフライング気味の拍手とその時につられた私の拍手の反応が気になっていた。観ると拍手を切ってある様子も無く顔つきからは全く何事もなっていない。そしてペトレンコの満足そうな表情を見ていると全く問題の無い拍手であることも確認した。一年近く気になっていたことなので胸のつかえがとれた感じであるとともに、むしろ新聞で話題になったような会場との一体感を再確認した。確かに天井を見上げ、手を下ろすところで拍手を始めたのは私の列だった。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
決定過程を明白にする 2019-02-21 | 女
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アホをギャラリーする

2019-08-17 | 文化一般
バイロイト行は色々と価値があった。先ずそもそも現在の執行部のアホの巣窟になってから初めての訪問で、それを確かめた。明らかに前回訪問の2014年から痴呆が進んでいた、それも顕著だった。しかしそんなものを確かめるために、交通費は仕方がないとしても、高額の入場券を支払う価値が無い。そこで思い掛けない20ユーロの券を都合して頂いた。10ユーロで買えた隣の席は空いていたが、そんなものを買うために態々出かけられない。

今回の「パルシファル」はネット発売で150ユーロ相当のものは買えたが、その差額120ユーロは交通費と駐車場、プログラムを入れても御釣りがくる。燃料代は渋滞で損をしたがそれでも60リットルほどの消費なので85ユーロは掛かっていない。駐車料金5ユーロとプログラム7ユーロで、12ユーロである。

先ずはなによりも初めてのギャラリー席。バルコンやロージュは申し込んだことがあるが、ギャラリーは第一クールにはさぞかし暑そうなので申し込んだことは無い。そこの音響に興味があった。結論からすると一度は確かめるべきポイントだった。なにが一番異なるかと言うと、第一ヴァイオリンが右から聞こえて、管楽器が深くから聞こえることだ。つまりこの劇場の奈落の庇の効果が一番確認しやすい席となる。特に声の乗り方は抜群で、これは流石のバーデンバーデンでも絶対無理と思った。

驚いたのは今更ながら字幕が無い事で、平土間では全く感じなかったが、上から見ると気が付く。そしてそれ以上に歌詞を正しく歌っている限り明晰に分かることだ。これも他所の劇場では到底得られない。ミュンヘンで「ペトレンコ指揮に言葉の明白さを求めようとしても」とかの声を聞いたが、バイロイトでずっと振っていればそんなことは言われなかったろう。

慣れている平土間との大きな相違は、ファンダメンタルなバスが出ない分軽い音になる事、逆に平土間のそれも前方になると ― ブーレーズ指揮は比較的前で聞いたが ―、あの奈落が箱鳴りのようになって前奏曲のチェロ音でも若干胴音気味になり、全体で明瞭性に疑問があった。その鳴りを全て解決したのが、ペトレンコ指揮のバイロイト音楽祭管弦楽団の演奏で、奈落を浅くしたのかと思うほど本当に驚愕した。その点上での音響は声と管弦楽の溶け合い方が理想的で、そして弦楽も比較的素直に響く。この劇場の為に創作された作品はこのパルシファルだけという事を改めて思い起こす。

視角が柱で切れている三列目の席だったが、中央は見えて、上手が切れるだけだった。つまり奥も含む中央一帯から左は完全に見えた。どうもどこの劇場も同じだがバルコンよりも天井桟敷の方が音響が良いという事はあり得ることだ。音響は音楽表現に深く係るので、改めて述べたい。

アホの巣窟への変化で最も明白なのは、当該の「パルシファル」の演出から齎された警備体制だろう。駐車場入りには検問はなかった。市の駐車場であるから有料になっただけが変わった。あの演出のための損害は如何に?券の交換は結局身分証明書の名前を手書きで写してスタムプを押すだけだった。それも昔からいる爺さんがポンポンやっていた。なるほどあれならば名前の書いてある本人が表れて席の取り合いをした場合は本人が勝ちと言うルールが分かった。落としたら苦情しない限り人のものになるという事だ。また書いてあった10%の20ユーロまでの手数料も取らなかった。逆に20ユーロ程度では割に合わないから委託買い取りもしないと話していた。なるほど。要するに転売するのはそれ程難しくは無い。

全てが低い知能から運営されているのがよく分かる。標準以上の知能があって少しセンスのある人ならば、ここに出かけるとそこはアホが支配しているとよく分かるだろう。しかし、途中から気になったパルシファルの舞台枠の上のフィギュア―は元祖音楽監督としか思えなかった。もう片腹痛い、森川信のおいちゃんであれば「馬鹿だねー、ああー、嫌だ、ああー嫌だ、サクラ枕持ってきて」と言いたくなるだろう。元祖の駐車区画の写真を撮ろうとしたら通り抜け禁止と警護していた。



参照:
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般
御奉仕が座右の銘の女 2005-07-26 | 女
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近くて遠いバイロイト

2019-08-16 | 雑感
先ずはいつもの小旅行記。近くて遠いバイロイト。帰宅は眠くなければ3時間で帰れた。記憶通りとても走りやすい。真っ直ぐではなくカーヴともいえない流れなのだが、スピードを出してもハンドルを取られない程度である。何よりもニュルンベルク・ハイブロン間は上下が少なく、薄っすらと下っている。これがとてもいい。だから疲れない、眠くなる前に、飲み食いしながら運転可能となる。夜間のトラックも少ない。

そして往路は上りながらも比較的走りやすかった。やはり平坦なのがいい。交通量最大ニュルンベルク環状も越えて、これでと思った。14時に市内で待ち合わせで、その時点で12時を少し過ぎていたぐらいなので、残り80㎞程なので、時間にして一時間見ておけばよい。つまり途中で一時間のピクニックで時間調整となる予定だった。そもそも道中の「パルシファル」の録画再生がまだ二幕までしか進んでいない。最後まで通して聞くのは難しいかなと思った。

そして10㎞ほど進むと待機帯側にトラックが並び出した。国境でもないので検問でもしているのかと思ったが、どうもアウトバーンを下りる車の列だったようだ。その列を横目にどんどん進んだ。二キロぐらい進んだところで渋滞となった。万事休すだった。十分ほどで後ろから桃色の長い車が来たと思ったら霊柩車だった ― それで10歳にもならない女の子が運ばれたことになる。そこから事故渋滞で数キロ走るのに二時間以上掛かった。今まで巻き込まれた事故渋滞でベストファイヴに入る酷さだった。その内一回はスコットランドからイングランドへの五時間以上のM1での大渋滞、もう一回はバイロイトに向かうハイルブロン周辺での大渋滞だった。なぜこうなるのだ。

その事故の報道を読むと既に9時過ぎに事故は起こっていて、結果横を通り過ぎた霊柩車でその場で死亡した小さな女の子が、41歳の親父と息子がヘリで輸送された。その場で蘇生を試みたようだが、写真を見ると車内から引き出すのに時間が掛かったのだろう。霊柩車が通ったのは12半頃で、そこから二時間だから、何をやっていたのか?記事によると事故検証に時間が掛かっていたとある。

事故自体が車に何かが起こって待機帯のトラックにぶつかったとあるが、トラックもなぜ止まっていたのか?車のタイヤの薄さからするとチューンアップしている感じもする。タイヤの破裂がもっとも起こりそうだが、それならば見分けがつく。

なによりも不可解なのは、警察が誘導しなかったことなのだが、下ろして迂回させる交通量を捌ける国道等が無かったのだろう。要するに居残ったものには二時間以上待たせるという方法が選択されtらことになる。ナヴィゲーションが果たらなかったのが幸か不幸かは分からないが、結局待ち合わせの場所に着いたのは15時10分過ぎだった。

また、完全にストップしてしまうと歩き出す人が増えるが、雨も降っていたので、小用に出るものぐらいだった ― 霊柩車を見た者はまるで弔いに居並んだようなものだと感じただろうか。10分おきにストップアンドゴーに数十メートル進むというのがまた燃費を悪くした。踏んだり蹴ったりだった。



参照:
バイロイトへの道程 2019-08-15 | アウトドーア・環境
アウトバーンでの救急車両 2017-07-06 | 雑感
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バイロイトへの道程

2019-08-15 | アウトドーア・環境
燃料を満タンにした。リットル1,323ユーロで、残り56.60リットル補充して、77,49ユーロ支払った。走行距離675㎞程になるので、60リットルほどの消費になるか?ミュンヘンへとバイロイトへとの相違は、ミュンヘンが標高519mに対して標高340mなので高低差は途中の山間部を含めてバイロイトのあるオーバフランケンに向かう方が小さいことだ。少なくとも出発点と到着点の高低差が200mも無い。つまり往路と復路の燃料消費の差は飛ばし方の方が大きい。往路はゆっくりと進むので渋滞さえなければ半分以下の消費になる筈だ。ここが山へと上って行くミュンヘン行とは大きく異なるところだ。勿論渋滞場所が上り勾配なら余計に燃費が悪くなる。

渋滞は、それほど走っていないが、要注意個所も幾つかあって、特にニュルンベルクの環状辺りが引っかかりそうだ。アウトバーンは、ハイルブロンからニュルンベルクまでは直線に近く一山二山あるがそれほどの上り下りではない。ここは夜間ならば飛ばせるので、ミュンヘン・カールツルーヘ間のアウグスブルクまでの直線に似た感じである。さあどうなるか?

ピクニック並びに移動食として、安売りになっていたハリボとステゥーデンテンフッター(学生の餌)を購入した。高速で走りながら眠気覚ましに口に出来る。果物はアプリコットとネクターを準備した。更にミニトマトである。飲み物は二種類のハーブティーを、温冷両方2リットル、あとは食事を二食分。ゆで卵二個等。

天気は予想されたよりも不安定なようだが、それほど悪くはならないと思う。帰路夜間に降られるのが、走り難くなり、スピードが落ちるので一番嫌であるが、往路は大丈夫だろう。ピクニックに車に戻るときに降られるのも嫌である。

衣裳は、厚めの古いシャツにした。いつも復活祭前の聖週間に着ていたものだ。もう草臥れて着れないので、今回ぐらいで引導を渡そう。アンチョコ蝶ネクタイで、適当に誤魔化そう。暑くは無いので、なんでもよい。



参照:
記憶を呼び起こすために 2019-08-12 | 雑感
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
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ちょっと自慢な光景

2019-08-14 | 生活
お出かけの準備で燃料を何時入れるか?満タンにしてからも一度走るとなると元は取れないかもしれない。それでも一杯一杯入れておけばバイロイト往復は可能なので、考えるところだ。涼しくなったので衣裳は楽になった。それどころか月末とは別に分厚目のシャツを下ろしても良いかもしれない。しかし月末もそれほど暑くならないとすれば、二着を九月と別けて数日間で着て回せる。

バイロイト名物のピクニックをどうするかだが、果物等を余分に準備しておけばよいだろう。それほど暑くはないので、それほど難しい話しではない。以前ならそこまで準備しなかったのだが、事情が分かって、最小限の時間で往復しようと思えば準備万端整えとかないといけない。帰りの睡魔も計算に入れて夜食の心掛けも必要になる。

嘗ての様に夏の間に二三度ザルツブルクを往復した頃とは多くが変わっていて、オペラが終わってからシナ料理で一杯引っ掛けて我武者羅に500㎞を四時間を割るような時間で走ったような状況にはない。交通量も多くなって制限速度も多くなり、交通規制も厳しくなった。

朝の一走りは、一寸違った。外気温が摂氏15度を下回ると、走っている途中で急に力が入る瞬間が出てくる。落ちる一方では無くなる。秋になると気持ちよく走れるようになるのはそれゆえだろう。それでも復路で陽射しのあるところで上りになると汗が噴き出す。

復活祭のバーデンバーデン市立劇場の公演完売を確かめた折に座席表を探すと知らないページが出てきた。予約するときには見つからなかったが、なんと3Dの準備までは整っていなかったが、座席からの光景が分かるようになっていた。こうなれば自慢で自分が予約した席からの視覚を紹介したい。場所はバルコンである。前回ブーレーズ生誕九十周年の際は上の方の階だったのでこの距離感が嬉しい。

ロージュも家族連れなどではよさそうだったが、大分遠くなる。出し物も室内オペラなので大した音が出ないことも分かっていて、兎に角、この機会とばかりに近くに寄ってみた。どこのオペラ劇場でもバルコンは最も舞台に近い場所となるが、この500人規模の劇場であると本当に近い。当日は、近くのカジノのパユの出るベートーヴェンのトリオから駆け付ける。合せて50ユーロ、これが更に嬉しい。

ルツェルンのこの十年の番組第五回目を流した。思っていたのとは異なったのは、ユジャ・ワンデビューのアバド指揮の演奏風景は一楽章の一部しか出なかった事。その分細やかに昨年の演奏との比較が話された。端的に言うと、デビューの時からアルゲリッチを超えるようなアジアンスポーティーをだけでは無い技量だったが、昨年は熟成した演奏をしたという事だ。

ドイツの二流新聞の評のように 何かが足りない、もう少し苦みを、風刺をとかいうような指摘が全く的を得ていないことを比較することで明らかにしていた。実際その弾き方の違いと管弦楽の合わせ方の違いを見れば、この女流ピアニストが如何に弾けるかというのが誰にでも分かる。

話しの中にもあったが楽譜をそのまま音にすることでデビューというような低次元のものでは無くて、ルツェルンのフェスティヴァル管弦楽団のパユを含むソリスツとも自由自在にコムボしているのを見れば驚くばかりである。

そして昨年は、徹底的に引いたり出したりのペトレンコがバックを付けていて、両者とも驚くばかりの妙技となっているのだが、あまりにもピアノも管弦楽も見事に一心同体の様になり過ぎて、それこそ比較してみないとどこまでの演奏家が分からないぐらいの出来だったのだ。

放送ではその堂々振りがとの話しだったが、正直私の座席からは殆んど楽曲の一部と化していた。やはりワンはリサイタルを聴かなければいけない既にトップクラスのピアニストであろう。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
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一万回も呟いたか

2019-08-13 | SNS・BLOG研究
いつもながらのブルーマンデーである。中々仕事が捗らない。日曜日のスイスからの放送は、疲れて忘れて、眠ってしまったていた。スイスの中継VPNがダウンしているようで中身は確認していないが、ユジャ・ワンの音楽祭デビューである2009年のクラウディオ・アバド指揮のプロコフィエフ三番と、昨年のキリル・ペトレンコ指揮の演奏が比較されて放送されたようだ。後者はARTEのものを落としたので、それとの質の比較となる。その後先日ラディオ放送されたのでそれほど関心は無い。前者の者も他所では観れるようだが、文字通り比較してみたい。

呟きが一万件を超えた。最初はBlogの更新お知らせのようなものだったが、知らない内に回数が増えた。それでも二つのBlogと放送などのお知らせ情報が主で、その他はコメント程度しかない。それでも数は増える。

ザルツブルクからの「イドメネオ」生中継を流した。流石に無料お試しでは切ってくる。だからまともには観れない。この機会を狙って制限を掛けてくるのは商売としては正しい。しかしそこで再読み込み度に流れるロレックスの宣伝は馬鹿だ。イメージを悪くするだけで、そもそもロレックスの高価な時計を買おうという人はそんなケチな考えは持たない。無料で見ようとする人には見識がある。だから悪いイメージしか植え付けない。少なくともロレックスのご厚意で30分ほどご覧くださいと流す方が有難味が湧く。ぶつぶつ切られると逆恨み感情しか湧かないだろう。それでも気にしない私は概ねの骨子を掴もうと読み込みを繰り返す。

ざっと一幕を観た感じではやはり大分「ティトュス」とは異なる。舞台も平面的で、緊張感も生まれていない。個人や合唱の演技自体はあまり変わらないが、同じ暗めの舞台でもハイライトがあまり当たっていない。全体の演出からそのようになっていると思われるが、細かな感情が演技として活きない。ソリスツにもキャラクターを示すだけの存在感が欠ける。一人の歌手の眼が大きく表情豊かだっただけでも前回は違った。何よりも欠けるのはドラマテュルークの構成で、可成り不味い。その大きな責任は音楽にあるのは間違いなく、舞台関係者が性格を正確に研ぎ澄まして強化していくためには音楽的に能弁でないと駄目なのだ。責任は指揮者クレンツィスにある。

音楽でドラマを作れない限り演出が何をやっても駄目なことは明らかだが、この舞台を見ていると悪いウィルソンのそれよりも冴えない。逆に復活祭の様にメータ指揮でドラマの骨子が出来上るとそれでもとても説得力が出てくる。二幕、平土間で歌わせて何を得ようとしたのだ。

因みに歌の一人一人は全然悪くない。評価がされにくいラッセル・ト-マスでも「ティートュス」の時よりも単調ではなくなってきている。残りはこれもオンデマンドになるならば一通り観れるのではなかろうか。



参照:
反レーシズム世界の寛容 2017-08-11 | 文化一般
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
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記憶を呼び起こすために

2019-08-12 | 雑感
ミュンヘンの「パルシファル」のストリーミング録画を鳴らした。先ず眠たくて仕方がない。朝起きして一走りしてきたからだ。夜中の最低気温は摂氏16度ほどで起床後窓を開けても涼しい。だから森の中も15.5度だった。しかし陽射しに当たって走ると直ぐに暑く感じた。夕方には27度にまで上がる予報だ。なんとか峠まで上がって下りてきた。体調はあまり良くない。下りに脇腹のぜい肉を感じた。先日摘まめるのを確認した贅肉である。どうも夏場は無暗に筋力を使わないようにしているので、脂肪が離れるらしい。離れると脂落としは容易である。今までの経験上この脂が運動で邪魔になると感じれば、落ちるのは時間の問題である。漸く夏太りからシェープアップへの季節となって来た。今夏は冷たい食事をして胃腸を弱らすことも無く過ごしやすい夏となった。

帰宅、シャワー後にニューヨークフィルの放送を聞くと、新曲をヤーパァン・ズヴェーデンが振っていて、いい音を出していた。なるほど力のある楽団だと思った。観客も沸いていて、これは来年の欧州ツアーが楽しみになって来た。昨年九月の演奏の一部であるから、直前の準備の中継録音放送は大分先になりそうだ。

2018年7月8日のストリーミングの録画を流してみた。前奏曲が始まって「あれこれは」と思って流していると一挙にこっくりと居眠りして、アンフォルタスの声で目が覚めた。急いで楽譜のページを捲ると、やはり気が付くことがあった。初日の演奏の記憶をもとにあれほどダイナミックスや表情記号を丁寧に演奏してと考えていたのが、いつものペトレンコのこれでもかと言う細かな拘りが、次から次へと抑えられているのを確認。

気になって、自身の当時の記事を読むと、フランクフルターアルゲマイネの批評に「特に一幕において、独自の控え目さが目立った」とあるではないか。初日とはまた違う筈だが、ここではまさにその通りの所に気が付いた。更に先日のミュンヘンのティール氏ではないが、「続く」と書きながら筆を留めている。実は当夜の記憶を呼び戻そうとしている。最終的にはもう一度初日の留守録音を聴き直したいが、それ以前に自分自身の不満がどこにあって、続きを掛けなかった理由と、初日のカーテンコールの情景を思い浮かべたい。

不満の一つに座席の音響が今一つよくなかったことがあるのだが、当夜のメモを再び解読してみないといけない。留守録音自体もじっくり聴いていない。記憶を上書きしたくはないのもあるのだが、それだけでは無かったかもしれない。勿論素晴らしい演奏だったが、引っかかりはどこにあるのか?

帰宅後に、「サクサクと進んだが車庫出しで21時20分」書いた。始まり16時で予定終了時刻が21時15分であったから可成り淡白に出てきたことになる。確か帰りに下の階で拍手をしたぐらいの程度だったのだろう。やはり満足度は低かったのか?

しかし一幕以上に二幕、三幕と満足度は上がっていたようで、必ずしも音響の問題では無かったという事なのだろう。同時に、ストリーミングを聴くとここはベルリナーフィルハーモニカーなら更なる表現になるだろうという個所は直ぐに出てくる。そもそも蓋付のバイロイトの祝祭劇場の為に創作された舞台神聖劇であり、思うように響かせるためのファクターは幾つもある。

バーデンバーデンの復活祭の残券状況をチェックした。何よりも驚いたのは、ハルトマン作曲の室内オペラ「阿呆物語」三公演が完売していることだ。歴史的な小劇場の座席数は500席なので、延べ1500席が売れたことになる。延べニ割強は出演者の家族や関係者としても千席以上は通常に売れたことになる。なるほど入場料は一律25ユーロと格安なので地元の人が多く買ったかもしれない。少し出遅れたが初日だけでもいい席を押さえておいてよかった。



参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
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Kawaiiからは遠い運命

2019-08-11 | 歴史・時事
新聞文化欄にサイモン・メイ著新刊「ザパワーオブキュート」が大きく扱われている。所謂Kawaii現象つまり社会の幼児化趣向への社会学的な視点で綴った書籍である。それによると、トラムプの行動や2008年当時の日本の外務大臣麻生などが例に挙げられる。KittyやPokemonnやEMOJI流行は言うに及ばず、ETやバルーンドッグス、シュレットなどのキャラクターの目や口に注目する。

心理的には、幼児化現象として、まさしくグスタフ・マーラー作曲第六交響曲の幼児退行が思い浮かぶ。最も作曲家の現実環境があまりにも辛辣を極めれば極まるほど、そうしたきらきらピカピカの幼児体験に想った世界へと戻りそこに遊ぶという心理と同じである。

ドイツにおいてもそのようなトイレットペーパーが直ぐに売り切れたとされる。ハローキティ―などのそれがある程度定着していて、日本の時の外務大臣が後押ししたように漫画を中心にそうしたサブ文化的な影響はあるものの比較的キュート文化からは遠い社会であったのにも拘らずである。だからこうして高級紙の文化欄の最初の記事として大きく取り上げられている。

やはり一種の社会の閉塞感という事なのかもしれないが、日本における芸術的な文化的な趣向と言うのをそこに見れば、現実逃避的な要素はとても強いと感じる。特に日本における西洋芸術音楽需要の核にある心理であって、西欧19世紀におけるフランス革命以降の市民の勃興を契機とする市民の「人生の苦悩」がそこでは最たる関心事となっている。

偶々見つけたDW放送の記事で、「運命交響曲」の命名自体が同時代のシンドラー絡みの運命の動機への言及であって、その後の浪漫派時代には揺るぎない文芸的な意味を保ち続けたというのはその通りであろう。それどころか1960年代のフォンカラヤン指揮全集録音における世界への西欧音楽文化の波及として、世界の隅々まで同じようにマスに働きかける「人生の苦悩」としての運命主題として定着させたことはあり得ることだろう ― まさしくそれを更に一歩進めたのがチャイコフスキーらであり、そこからマーラーへもと受け継がれる。

これを見れば、なぜ通俗名曲と呼ばれるものが、こうした「人生の苦悩」を土台として、そしてそれが複製芸術として市場を形作っていったかが明らかになる。なるほど心理的にはマーラーへと進むとひねてはいるが、その延長線上にある心理であることは間違いなく、次点として日本では売れる曲、プログラムとしてそれらが挙げられる ― つまり日本人の歓心を得ようと思えば「人生の苦悩」しかないようだ。

そこで放送記事で取り上げられているように、ロート指揮のレシエクレなどのオリジナルサウンドを求める楽団の演奏では、もともとフランスでは自前のフランス革命精神から演繹的に「運命の動機」つまり「勝利の歌」としてのハ長調のフィナーレからイメージが定着するとして、なるほどその「運命の動機」への意味づけが変わってくる。革命前には、そうした職業の選択権も移住の自由も結婚の自由さえも無かった「人生の苦悩」などは存在しなかったので、楽聖には健康上の問題はあったにせよそれを超えたチャイコフスキーのような苦悩を当て嵌めるのは誤りであり、精々ベルリオーズなどをそこにおけば足りるのである。こうすることで、その後の浪漫的な芸術への創作意志などがより浮かび上がってくることになるだろう。

その面の右下に、バイロイト出演予定のアナ・ネトレブコがローエングリン出演をキャンセルして、来年もデビューは無いことが発表されたと代役の発表と共に短報してある。来年以降も出ないという事で、「疲れた」と言うのは結局エルザへの挑戦が上手く行かなかったという事になりそうだ。



参照:
Der Schrecken der Verniedlichung, Melanie Mühl, FAZ vom 9.8.2019
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
無酸素で挑む運命の先 2019-07-23 | マスメディア批評
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週末の片づけもの

2019-08-10 | 生活
そろそろ来週の準備をする。同時にそれが終わるとルツェルンまでにもうあまり時間が無くなって来た。もう一度楽曲を整理すると、急遽来週の一曲が増えて、次のようになる。

パルシファル
ト長調K453
「ラメール」
「火の鳥」組曲1919
ルル組曲
第九
シェーンベルクop.36
チャイコフスキー五番


これ以外に室内楽が十曲ほどあるが、準備しておくほどの楽曲は見つからない。

「パルシファル」は、昨年二度も勉強したが、完全に忘れてしまっている。もう一度ペトレンコ指揮の演奏を聴いて、細かな箇所をチェックしておこう。正直復活祭での上演に比較するとそれほど全体的に強い印象は無い。寧ろ細かな場面が思い起こされて、若干全体の見通しはラトル指揮よりも悪かったかもしれない。理由は様々なので一概には言えない。その点も調べてみたい。

前奏曲からBGMで流すと、一体これは楽譜上はどうなっているかなどの細かなところが気になって来た。その指揮の明白性によって、しばしば楽譜に還って確かめて行かなければいけないのがキリル・ペトレンコの芸術ではある。そしてその手間を厭わない音楽ファンは、その確証に満ちた指揮に拠って、初めてその創作の真実を知ることになる。しかし、それでもその強弱や濃淡もある事であり、また楽劇の場合などは演出に合わせて表現されるために若干やり過ぎになることは当然あり得る。その辺りに評価をしたいと思った。

バルトークの三番に代わったのでK453ではあまり興味が無くなった。「火の鳥」も今更組曲ではと思い、どちらかと言えば「ラメール」に集中したい。ルル組曲も第九も音源は再来週末の中継を待つとしても、特に第九の方は先ず幾つかの楽譜を比べてみよう。まだ必要なら注文する時間もある。後の二曲は復活祭の続きなのでまだ直ぐに戻れる。



参照:
修正される中継録音 2019-08-04 | 生活
「パルシファル」動画集 2018-10-17 | 音
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
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巨匠ショルティの美意識

2019-08-09 | 
夜間は冷えた。夜中は久しぶりに窓全閉で就寝した。しかしそれ程寝起きは良くなかった。適当に裏山を駆けた。車中のSWR2で面白い話しが出ていた。大指揮者ゲオルク・ショルティがスウェーデンから出演依頼を受けて、ベルヴァルト作曲交響曲三番の指揮を打診されたという。

恐らく電話で、「一体どのように鳴るんだ」とショルティが尋ね、四度の連続の主題であることを知って、スウェーデンに着いて、その場で歌ったという。そして「やはり指揮するのは止す」と断った逸話が紹介された。

ショルティの美意識もさもありなんで、この私でもDLした楽譜を見ていて、このような曲に本当に音楽的な価値があるのか?、まるで自分が子供の時にブルックナーを真似で作ったセクエンツと変わらないではないかと思った。

そして、ブロムシュテットがヴィーナーフィルハーモニカーを指揮して演奏するのでバーデンバーデンの祝祭劇場に出かけた。そこでのいつものシマンツキー氏の解説は良かった。その四度の動機の扱いで、ピーポーピーポーの救急車音としての作法から、このあまりにもユニークな楽曲の遠近法としてのアイデアが紹介された。残念ながら91歳のスウェーデン人指揮の座付管弦楽団には到底そうした遠近感の妙は表現出来なかった。後半のドヴォルジャークの七番交響曲と共に「金返せ」程度の酷い演奏会だった ― とは言っても始めから分かっているので30ユーロも払っていないが。

そしてその後フィラデルフィアからの同曲の生放送を聞いた。いつものようにネゼセガンの解説も秀逸だったが、なるほどこういう演奏は到底座付楽団では出来ないと思った。ああした柔軟なフィラデルフィア管弦楽団の弦楽はベルリンでもとても難しいと感じた。当然ショルティがシカゴ交響楽団を振ったとしても困難だったと思う。

ベアヴァルトの交響曲この演奏は、恐らく最も優れた演奏で、ネゼサガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏としても可成り突出していたと思う。ネゼセガンがどのような指揮者かと問われれば、この演奏指揮を代表としたい。たとえその後のカミングアウト後の更なる音楽への集中度、指揮の卓越が感じられるとしても現時点ではこのユニークな交響曲の演奏を挙げたい。



参照:
至宝維納舞踏管弦楽 2018-09-29 | 音
カメラに譲った座席 2018-09-26 | 生活
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脚光度ピカイチの女性

2019-08-08 | 
放送局のサイトを覗いていると初夏に出たCD批評があった。昨年のフランクフルトでのオペレッタ「メリーウィドー」の生録音だった。六月に発売されていることは知っていたが、そもそもライヴ録音ものには興味が無いのですっかり忘れていた。しかし先月末になって、2021年からバイロイトの音楽祭に女性指揮者が登場と告げられて、一体誰かという話題になった。その多くはヴェテランの女性指揮者でハムブルクの音楽監督になっていた人を挙げる。経歴的には間違いが無い女性である。それどころかミュンヘンではキリル・ペトレンコの代わりにヴァークナーを指揮していて、地位としては全く文句の無い人選である。しかし、その指揮の刻むリズムやら、明らかに才能が無いのである。

次に挙がっているのが、フィンランドの指揮者で、こちらは昨年の同様の記者会見に同席していたという事で、予想されている。しかし肝心のヴァークナー指揮の経験が薄いという事で、一体何をしにそこに居たのか分からないというようにも書かれている。恐らく可能性は薄いだろう。

しかし話題性という事では上のオペレッタを客演指揮したヨアナ・マルヴィッツに勝る人は居ない。その名前からポーランド系だろうが、ここ一二年の脚光度はピカイチだった。このシーズンから、バイロイトに最も近い大都市ニュルンベルクの州立歌劇場の監督であり、人気地位共に急上昇の女性指揮者である。

昨年の公演を聞いた記憶では技術的には課題があるとは思われたが、今回編集した生録音の抜粋をYouTubeで聞くと、修正されてある事もあるが、記憶以上に素晴らしい。客演であり、フランクフルトの座付管弦楽団ではどうしても音楽表現が至らないところもあったが、二三回の収録で修正していったのが伺える。その後に生で聞いたのだが、その時は全てが上手く行かなかったのもこの程度の楽団の常としては当然だったかもしれない。音楽監督であれば人員も調整できるのだが、それは客演での制限あっての成果でしかなかったろう。

こうして録音を聞くと、最早バイロイト初の女性指揮者としての実力には疑いようがない。元祖音楽監督ティーレマンでは出来ないことが沢山出来るのは間違いない。ざっと才能の無いドイツ出身の男性の指揮者を見回しても中々これだけの指揮をする人は居ないので、脚光を浴びていたのは当然と言えるかもしれない。人事権は、その人達にあるので、バイロイトの件は憶測の域を出ないが、どちらにしてもこの人がその人達の人事権では左右されない立場になることは自明だ。
Die lustige Witwe, Act II: Nun lasst uns aber wie daheim (Live)

Elisabeth Schwarzkopf; "Es lebt' eine Villa"; Vilja-Lied; Die lustige Witwe; Franz Lehár

Die lustige Witwe: Act II: Es lebt eine Vilja, "Vilja Lied"

Anneliese Rothenberger; "Es lebt eine Vilja"; Vilja-Lied; Die lustige Witwe; Franz Lehár


YouTubeの連続演奏で殆ど聞けた。AMAZONでは19ユーロで出ている。二枚組でもう少し安くなってくれれば、記念に買っておいてもいいなと思うぐらいだ。ベルリンの放送局での評価も大変高い。但し、そこでも語られているように、演出のクラウス・グートの各人へのキャラクター付けなどが分からずに、音だけでは分からないところがあるとするのも正しい。残念ながら映像制作ではないので残念だが、映像であると今度は更に音の編集が大変になっただろう。
Franz Lehár: DIE LUSTIGE WITWE


この作品の名録音として、シュヴァルツコップの二度にわたる録音がレファレンスとして論じられていて、それとは異なるというマルリス・ペーターセンの歌も演出に依存する。しかし、その比較で聞くと、シュヴァルツコップの鼻へと抜けて殆どボカリーズになって仕舞う歌唱とは異なり歌詞が確りと出ていて、最近の歌手の例えば「最後の四つの歌」のディアナ・ダムローなどと同じで如何に技術的に優れているかが分かる。嘗てシュヴァルツコップやフィッシャーディースカウなどが教師として君臨していた時には、まさか今の様に現代的な歌唱技術を保持した歌手が出てくるとは全く想像もつかなかった。相手役のルーリ・サモイロフも大健闘していて、素晴らしい。

マルリス・ペーターセンは、月末の合唱交響曲、11月のコルンゴールト、来年4月のフィデリオと当分聞き続けることになる。2016年の新制作「ルル」時に殆ど卒倒してしまったようで、ペトレンコが「彼女の言うことはもう何でも聞く」と語っていたが、その音楽性は全く以ってキリル・ペトレンコが求めているそのものであって、フィデリオが特別難しい課題とされる意味も更に分かって来た。

しかし、彼女の話題を扱ったりフェースブックにリンクを張っただけぐらいの付き合いしかないのだが、なぜかオパーフェストの時に石階段下の暗闇で写真を写していて、視線を特別に貰ったのはなぜだったのだろう。SNSだけで特定されることは無いと思うのだが。



参照:
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
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鳴かぬなら突いてやろう

2019-08-07 | マスメディア批評
ミュンヘンの劇場に出入りしているマルクス・ティールと言う音楽ジャーナリストがいる。ここ暫く音楽祭ゆえかコンサートについていつもの地方紙に幾つか回して書いているようだ。先日気が付いたのはクレンツィス指揮に関してはもぞもぞと逃げたような中途半端な文章でいい加減な投稿をしていたが、今回はネゼ・セガン指揮の地元の放送交響楽団演奏会について書いている。そして明らかに任務放棄をしている。それどころかばかげた結論を書いていて、これは突いてやらなければいけないと思った。

今更の如くネゼセガンについて驚愕しているのはプレス関係者としては不味いが、東海岸に頻繁に飛ぶような立場の人ではないから良しとしておこう。それにしてもSNSの映像を観て、行かなかったプロムスでの成功振りを予想して、如何にこの指揮者が同じように代行の指揮者マルキとは異なるかを強調している。因みのこの人の書き方からすればヤンソンスは休養ではなく病気となっていて、これは逆にこの人の情報の確かさの方を感じさせる。
BRSOONTOUR: Welcome Yannick Nézet Séguin


この人はショタコーヴィッチの第五の演奏をとても評価している。それによると二重の意味とかそうしたものを演奏実践で実体化させているからという事になる。つまり、何だかんだ叫んだり、嘆いたりしてもその演奏自体が実体感を持っていなければ意味が無いという事になる。恐らくこの人の脳裏には先日同じ会場で体験したレニングラード交響曲の演奏があって、それについて書きたくても書けなかったという大人の事情が見え隠れする。まるで極東の国の音楽ジャーナリストのような斟酌や忖度の心掛けがある人なのだろう。奥さんは日本人か?

そして私が評価したベートーヴェンの二番の方は少し落ちるがそれでも素晴らしい演奏で、普段の余裕を持った放送交響楽団の演奏に胡坐をかかさないのがよく分かったとしていて、そこまで分かったなら放送交響楽団が指揮の水準までまだ弾けていないことを指摘しなければ片手落ちだ。恐らくこの人はもう一晩「ローゼンカヴァリエ」組曲まで聞いているのだろうが、流石にオペラジャーナリストとしては迂闊に書けなかったのだろう。と言うか、この人の綴り方を見ていると、「私は議論になるような面倒なことは書きませんよ、私の紙面を読む読者に向かって書くのですから」と地方紙の程度を言い訳に仕事をしている人なのだろう。

やはり年寄りは駄目だと思わせるのは、若い人ならば組曲に少しコメントすれば間違いなく交響楽団のみならず指揮者も目を通すことが分かっているので、少しでも影響を与えることになると思って、上手に批評しようとするだろうからだ。

豚に成り下がった人間は、ネゼセガンをその実演での集中度を齎す相違で、ハーディングやネルソンズとは大きな溝を開けていると番付を試みるが、精々私のブログでも翻訳機で訳して読んで置くが良い。そしてその相違がどこから来るかなどと言う科学的なジャーナルを一切試みない。なのにそれは確信しているというとんでもないことになっている。

そしてこともあろうに、八月の終わりにペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーが来て、お手並み拝見となるが、もしやするとその厳しさに喘いで、ネゼセガンに浮気するかもしれないぞと、とても破廉恥なことで駄文を結ぶ。ショスターコヴィッチでの現象としては楽員がソロもテュッティ―も一緒に息づくようになってとか書いているが、それならばこの人はペトレンコ指揮でミュンヘンでも一体なにを聞いているのだろうかと訝らざるを得ない。

これだから、我々音楽ファンは、歌芝居の世界などには近づきたくないといつも叫んでいるのだ。来年はバーデンバーデンでこの二人の競演もあるので、この親爺のどこかに書き込んでおいてやろうと思う。カーネーギーホールでは「ペトレンコとセガンを一緒にするな」と書き込んでいた人がいたが、私はもっとネゼセガンの指揮を勉強しなさいと言いたい。しかしそれでも、欧州に一ついいポジションがネゼセガンにも欲しいと話しを振って、放送交響楽団と言い出さないのは流石にトウシロウとは違う。ヤンソンスとネゼセガンのグレードの差もそれとなく上手に表現した ― 恐らくこちらの方がこの地元ジャーナリストの要旨だったのだろう ―、それならば楽団に向かって指摘することを指摘しろともう一度言いたい。そういういい評論家や聴衆が居ないから地方の放送交響楽団はそこまでなのだ。



参照:
Yannick Nezet-Seguin und das BR-Symphonieorchester: Die Seitenspringer, Markus Thiel, Merkur vom 5.8.2019
初代改め元祖の方がよさげ 2019-08-01 | マスメディア批評
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音
還暦おめでとうの誘い 2019-04-02 | マスメディア批評
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今は昔と感じること

2019-08-06 | 雑感
パン屋が開いた。店内は列が出来ていた。毎日行かない人でも夏休み終わりとなれば、ホームメードの本物が恋しくなるのだろう。特別なパンを焼いている訳ではないが、やはり手焼きは違う。その証拠に雨が降ってくるとぼさぼさとなっていた。職人の腕が直ぐに表れる。経験が表れる。それでいいのだ。

二週間ぶりに沢を往復した。高低差が無いので楽なのだが、それはそれで汗を掻いた。外気温は摂氏17度であったが、雨雲を避けて走った。

職人技と言えばロスアンジェルスからの中継録音を聞いて、どうしてもそれが見つからない。合衆国の管弦楽団の中の所謂ビッグファイヴの中でも最高に支払われている交響楽団であるが、全くそうした職人的な気持ちを感じさせないのがロスアンジェルスフィルハーモニー管弦楽団である。創立年度が新しいだけならばそうした特徴が花咲くのだろうが、受け継がれているものが悪い。ズビン・メータがガン治療後に復帰したコンサートからブラームスツィクルスを始めた。一回目のブラームスの第一協奏曲はルービンシュタインとの共演が有名である。ここではブロンフマンの演奏で、交響曲一番の前に演奏された。そして二回目の前半の第二協奏曲の始めは聞き逃したが、やはり大した演奏では無かった。それでも三楽章が終わって拍手が来る。ロスでの西欧音楽需要などはその程度なのだろう。流石にあれは西欧の普通の音楽会ではない拍手だ。その聴衆の程度がこの西海岸の高給取りの楽団の質を端的に表している。あとの四つの交響楽団でもファミリーコンサート以外ではありえないと思う。後半の交響曲二番はそれらよりも良かった。やはりこの指揮者の十八番なのではないかと思った。

それにしてもあそこで拍手する客も客だが、放送のアナウンスが「指揮者は腕をスイングさせるだけではないぞ、全ての楽器のことも知らないといけないのだ」とか話すものだから、どんな人を相手にしているか分かる。現在の音楽監督デュダメルのお客さんである。聴衆以上の音楽活動なんて存在しないという事だろう。

「ルツェルン音楽祭の10年」第四回目を観る。生では入れなかった。もう少し早く準備しておかないと無理なようだ。期待したユジャ・ワンはまだ出ない。軸はアバドの作った楽団という事で、今回もシャイ―とラトル指揮で各々祝祭楽団とベルリナーフィルハーモニカーでラヴェル聴き比べだった。初めて導入の話しを聞いたがスイス訛りでも流石に国内向きには字幕が入っていない。お蔭さまで、南ドイツに居てスイスでの仕事も多かったのでアレマン方言の一つとして、理解は全く問題が無い。アレマンに慣れていないと違和感だけでなく更に言葉も分かり難いと思う。

なるほどラトル指揮ラヴェルは勿論悪くは無いのだが、しかしその人気指揮者がメシアンの大曲を振るとなるとそれほど売れない。それが何を示しているかと言えばその人気に反してラトルの芸術がどこまで広く知られていたかと言うと大変疑問である。だからこうした番組でその演奏を評価していても、どこまで話し手は音楽が分かっているのかなと感じてしまう。やはりジャーナリズム的に科学的批判が出来ないところでは本当に正しくも評価が出来ないのに違いない。

我々長年のファンからすれば、何をいまさらと言う気もあり、またベルリナーフィルハーモニカーが標準型の楽器配置を採用していたこともあり、ルツェルンのシューボックス型の会場を活かしきれていなかっただろうという印象しか持たない。そしてしかもあんなにつるつるのベートーヴェンを指揮したものだと、今は昔の感が強い。昨年の復活祭のことであった。



参照:
すわ、頂上往復か 2019-07-30 | 生活
次はシェーンベルク 2018-03-28 | 文化一般
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嫌いなMP3の報復

2019-08-05 | テクニック
修正された「サロメ」初日中継録音は良かった。それでも途中から高音域の上が切れている事に気がついた。生中継では丁度変調ノイズなどが気になった域より上である。なによりも生での音の体験とは異なったので調べてみると ― 実際にソプラノの中域が固く響いた ―、中途半端そうなMP3を聞いて録音していたことが分かった。聞くときはPCの関係から44kHzでしか鳴らせないので、録音したものを96kHz再生して事情が呑み込めた。HR2は比較的車中などで聞いていて、馴染みもあるのだが ― 先日HR-Klassikへの移行が発表された ―、今まで気が付かなかった。迂闊だった。

なによりも驚いたのが、演出の最初の劇外音を全て切ってあったことで、なるほど視覚が無ければ役立たずである。よってその紹介とともにマルリス・ペーターセンの歌へハイライトが当てられてフランクフルターアルゲマイネの評が紹介された。その意味からはあのMP3で事足りたかもしれないが、こちらは不満足である。それどころか今年のARDフェスティヴァルシーズンはここが中心になっている。ならば対応処置を考えなければいけない。

先ずは今まで無精していて調べ上げていなかったストリーミングのそのネットの音源を洗っていく。そしてリスト化する。各局、生中継、通常ストリーミング、オンデマンド、ポッドキャストなど様々なものを出しているが、今ここで興味あるのは前の二つである。

一挙に全部は難しいので、徐々に継ぎ足して行こう。先ずは通常のLiveとされるストリーミング音源。

HR2, MP3
SWR2, AAC並びにMP3
BR-Klassik, MP3 128kb/s
DeutschlandKultur MP3 128kb/s
NDRKultur, MP3 128kb/s
MDRKlassik, MP3 128kb/s
rbbKultur, MP3 192kb/s
DRS2, AAC
WDR3, MP3 256kb/s
NPO Radio4, MP3
France Musique
RAI3
WRTI MP3
WCLV
NHK FM, M3U8

やはりこれを見ると直感的に違うSWR2などはやはり違った。数字が出ていないので容易に一番とは言えないが、聴覚上は上位で間違いない。rbbが比較的良いのはこれでも証明された。ドイチュラントクルテューアなどはそのままMP3でオンデマンドや生録音するのと差が無い事になる。最も音質が悪いと思っていたが、他のNDRやMDRも同様だと知って驚く。恐らくHR2は192kb/sには届かない。



参照:
超弩級の中継放送録音 2019-08-03 | 音
沸々と、ああ諸行無常 2019-05-25 | 音
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修正される中継録音

2019-08-04 | 生活
再び山登りコースを走る。前夜からジャガイモを食して備えていた。何とか完走した。一週間中に二回走ることは殆ど無い、それどころか間に20分ほど軽く走っている。距離にすれば合せて20㎞にもならず、高度差も千メートルも行かない。しかし充分だった。何よりも歯茎が炎症している状態では完走しかなかった。そして週明けからはパン屋が再開する。夜中の気温も摂氏16度ほどまで下がるので、最後のチャンスだった。週明けは谷沿いを走る。

出かけるのも少し遅れたので気温は低かったが、急坂で後ろから陽が射すなど必ずしも気分は良くなかった。前回よりも核心部で不安になった。それでも最後の頂上への急坂も上り終えた。上りは何度走っていても体調もあるのでやはり足が止まらないか不安になる。本当は下りにどれだけ運動できるかで消費カロリーは変わるのだが、そこまでは到底追い込める状況にはない。

兎に角、無事帰宅。体重計に乗ると73.6㎏で先月75㎏を超えていたことからすれば何とか留まっている。今夜は肉を食して、もう一度ジャガイモで栄養を補給しておこう。それでももう一つ体調も落ち着かずに、交感神経に少し来ていて具合が悪い。

再放送のある新制作「サロメ」初日の録音を流している。どうしてこうもBR-Klassikのストリーミングは音質も悪く安定しないのだろう。ネットを探してもこの問題はあまり出てこない。公式にはMP3しか提供していないことになっていて、Liveと言うのはそもそも受信機の代わりで流しているストリーミングでしかなく、その音質を問う話しにまでいかない。殆ど、雑音を入れて放送しているようなものである。

兎に角、いつものプツプツ変調音のようなものと、あまりにもダイナミックスを落としたことで音の実体感があまり伝わらなかった。更に小さなドロップアウトなどもあり、決して高音質放送とはならなかった。だからHR2の提供録音による調整された録音の放送が聞き逃せない。

さて今回の再放送で何がなされるかと言うと、録音スタッフとプロデューサーで音楽的や雑音などの編集の可能性を検討されて、どうしても必要ならばなされて、技術的には録音した音量を整えることが重要である。少なくとも初日の中継はGPでのテストがあった筈のなのだが、可成り音量が抑えられていた。二割三割方は上方へと修正されるだろうか。すると今度は音の実体感は浮き上がって来るかもしれないが、雑音成分がどのように目立つかだろうか。手間をかけて修正しないと、ARD内だけでなく海外の放送局へも提供することになるので、とても重要である。

改めて聴いていると、金管の響きなど、今までの公演の初日としてはとても粒だっていい。よく合わせている。そのあとの公演でも素晴らしかったが、初日から文句無しの水準に仕上げて来ていて、感心するばかりである。こうして特徴を挙げていくと、放送がとても楽しみになって来る。

すわ、バイロイトへという話しになって来た。「タンホイザー」も一度だけのゲルギーエフ指揮も興味深いのだが、ペトレンコの先生ビュシュコフ指揮の「パルシファル」も気になって来た。客観的にみて、今世紀にあそこで指揮した指揮者の中で、ブーレーズ、ペトレンコに続くのは、ネルソンズぐらいで、ビュシュコフが圧倒的な指揮名人である。あとは劇場指揮者の範疇を超えるようなのは殆どいなかった。昨年の評を見るとやはり一流で、今年の初日も更に良くなっていたようだ。歌手陣も声量たっぷりで穴が無いようで、つまらない演出を気にしなければ音楽的には高度だ。そもそも安い席しか興味が無かったので、観劇出来ても視覚に制限がある。今までバルコンを発注しても当たったことが無く、ギャラリーの柱の後ろで音だけでも聴いて来ようかと思う。恐らく自分でも好んで発注しない席である。何事も経験で新たな視野が開けるかもしれない。平土間の比較的前方で聴いたブーレーズ指揮の「パルシファル」、バーデンバーデンの鳥肌ものベルリナーフィルハーモニカーのシルクのようでまた官能的な音色、ペトレンコ指揮の精細な響きと比較することになる。特にブーレーズ指揮の音色はよく覚えているので、指揮者の相違での音色の相違が興味の向かうところだ。さて無事に一日旅行まで辿り着けるだろうか?前日か翌日に「タンホイザー」ならば一泊して当日券を狙ったが、中々そうはいかない。ビュシュコフ指揮ならゲルギーエフ指揮よりも遥かに素晴らしい音を聴かせてくれることを期待しよう。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
すわ、頂上往復か 2019-07-30 | 生活
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