一日中血圧上がりっぱなしだった。しかし無事乗り越えた。なんと言っても合唱付き楽章に尽きる。なるほど一楽章の弦楽器の柔軟性は樫本の業であり、四楽章でもフレージングの弓の扱いが聞いているだけで確かで、あの月並みなメロディーが新鮮に意味を持って聞こえた。何よりもそれによって自然なアゴーギクのダイナミックスへと大きな弓使いを、それゆえに切れば切るほど律動感が発生する。樫本がマイスターを務めることは分かっていたが、二番にスタブラーヴァを入れたのは意外だった。なるほど最後のオープニングコンサートであるから、特にベルクが入っていたのでぜひ入って貰ったのは分かるが、もう一つのプログラムのシェーンベルク・チャイコフスキーと掛け持ちになる。
二楽章はもう一度聴き直さないといけないが、基本的には拍を合わせる事での凝縮感が、頭を合わせたフルトヴェングラーなどと同じで、見事だった。三楽章の弦などはもう少し繰り返すとよくなるだろう。フルトヴェングラーの場合は、その和声のヴェクトルを重視する訳だが、ペトレンコの場合はそうした圧縮無しに正しい音を合せることと自由自在に歌わせることが出来ることから、同様の効果が生じている。
木管楽器陣のアンサムブルも復活祭の延長で見事になっていて、金管との合せも更に改良されていて、フィラデルフィアとまではいかないでも、もう一息である。それにしてもベルリナーフィルハーモニカーの弦の強い線の歌はこの曲には無くてはならないと思う。昼間の放送でもフルトヴェングラ―の戦前の録音との比較が流されたが、明らかにそこへと戻っている。
ルル組曲は、全く全曲演奏とは異なった。何よりもテムピを押さえているので完璧に演奏させられていて、システム間の出入りが、あるがままで、稀に見る演奏となっていた。しかしこれこそ繰り返さないとまだまだ本領発揮とならないだろう。しかしこの精度での上演は不可能で、組曲は別と考えるべきだろう。曲説明は先日ミュンヘンで挨拶したクラースティンク博士が担当していたが、そのドラマテュルギ―とは少し違うと思う。その話しの終わりに組曲を交響曲として更に歌曲付きの交響曲からマーラー、そして第九と繋ぐのは一寸違わないか。キリル・ペトレンコのブレーンでもあるので間違ったことは話していないと思うが、さてどうだろう。ペーターセンの歌も到底舞台の上では無理な精度で、初登場で十二分にその実力を示したと思う。
合唱付きにおいても「ミサソレムニス」同様に見事な歌で、それどころか映像を見ていると、合唱に合わせて口ずさんでしまっている。表情の豊かな人だから考えていることがそのまま出てとても面白い。兎に角、器楽的にも歌える人で、中々比較できる歌手はいないと改めて思った。ペーターセンに見つめられていたバスのユンも準備万端で最高の歌唱を聞かせたのではなかろうか。ブレゲンツでの「千人の交響曲」ではそこまで立派な歌では無かった。
23時過ぎの批評にもあったように、二楽章がそのもの戦争シーンだとするのも、例えばブルックナーの蒸気機関のカムとの対照でもあり、当然四楽章と対照となっている。まさしくクラーシュティンク博士が述べていなかったドラマテュルギ―であり、一楽章冒頭のフォルテと共にとても強い対照の構成を示したことになる。ペトレンコ自身による解説では、英雄交響曲を逆転させた形で、英雄を奪い逆行させたのがこの一楽章となる。その意味で四楽章が大成功しているのだが、通常の演奏ではその対照が疎かにされている。まさしくミュンヘンのミサソレムニスの演奏からそのような明白な対照と構成が示されると予測していたところである。
総じてフィルハーモニーの聴衆は、ブレゲンツの千人の交響曲の時の様に本当のスタンディングオベーションまでには至って無かった。様々な理由は考えられるが、マーラーとベートーヴェンではやはり古典の曲はより古典的な教養も必要という事ではなかろうか。
これでブランデンブルク門でのオープンエアーでの第九に関してはなんら心配もいらない。それにしてもこれほど明白に歌詞が歌われたことは無いのではなかろうか、初めてその言葉が聞き取れた。放送合唱団も想像していたよりも遥かに良かった。
参照:
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事
次元が異なる名演奏 2019-08-18 | マスメディア批評
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
二楽章はもう一度聴き直さないといけないが、基本的には拍を合わせる事での凝縮感が、頭を合わせたフルトヴェングラーなどと同じで、見事だった。三楽章の弦などはもう少し繰り返すとよくなるだろう。フルトヴェングラーの場合は、その和声のヴェクトルを重視する訳だが、ペトレンコの場合はそうした圧縮無しに正しい音を合せることと自由自在に歌わせることが出来ることから、同様の効果が生じている。
木管楽器陣のアンサムブルも復活祭の延長で見事になっていて、金管との合せも更に改良されていて、フィラデルフィアとまではいかないでも、もう一息である。それにしてもベルリナーフィルハーモニカーの弦の強い線の歌はこの曲には無くてはならないと思う。昼間の放送でもフルトヴェングラ―の戦前の録音との比較が流されたが、明らかにそこへと戻っている。
ルル組曲は、全く全曲演奏とは異なった。何よりもテムピを押さえているので完璧に演奏させられていて、システム間の出入りが、あるがままで、稀に見る演奏となっていた。しかしこれこそ繰り返さないとまだまだ本領発揮とならないだろう。しかしこの精度での上演は不可能で、組曲は別と考えるべきだろう。曲説明は先日ミュンヘンで挨拶したクラースティンク博士が担当していたが、そのドラマテュルギ―とは少し違うと思う。その話しの終わりに組曲を交響曲として更に歌曲付きの交響曲からマーラー、そして第九と繋ぐのは一寸違わないか。キリル・ペトレンコのブレーンでもあるので間違ったことは話していないと思うが、さてどうだろう。ペーターセンの歌も到底舞台の上では無理な精度で、初登場で十二分にその実力を示したと思う。
合唱付きにおいても「ミサソレムニス」同様に見事な歌で、それどころか映像を見ていると、合唱に合わせて口ずさんでしまっている。表情の豊かな人だから考えていることがそのまま出てとても面白い。兎に角、器楽的にも歌える人で、中々比較できる歌手はいないと改めて思った。ペーターセンに見つめられていたバスのユンも準備万端で最高の歌唱を聞かせたのではなかろうか。ブレゲンツでの「千人の交響曲」ではそこまで立派な歌では無かった。
23時過ぎの批評にもあったように、二楽章がそのもの戦争シーンだとするのも、例えばブルックナーの蒸気機関のカムとの対照でもあり、当然四楽章と対照となっている。まさしくクラーシュティンク博士が述べていなかったドラマテュルギ―であり、一楽章冒頭のフォルテと共にとても強い対照の構成を示したことになる。ペトレンコ自身による解説では、英雄交響曲を逆転させた形で、英雄を奪い逆行させたのがこの一楽章となる。その意味で四楽章が大成功しているのだが、通常の演奏ではその対照が疎かにされている。まさしくミュンヘンのミサソレムニスの演奏からそのような明白な対照と構成が示されると予測していたところである。
総じてフィルハーモニーの聴衆は、ブレゲンツの千人の交響曲の時の様に本当のスタンディングオベーションまでには至って無かった。様々な理由は考えられるが、マーラーとベートーヴェンではやはり古典の曲はより古典的な教養も必要という事ではなかろうか。
これでブランデンブルク門でのオープンエアーでの第九に関してはなんら心配もいらない。それにしてもこれほど明白に歌詞が歌われたことは無いのではなかろうか、初めてその言葉が聞き取れた。放送合唱団も想像していたよりも遥かに良かった。
参照:
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事
次元が異なる名演奏 2019-08-18 | マスメディア批評
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音