デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



パルムというのは、イタリアのパルマを指す。

『赤と黒』のときのように、作品が一応は西洋文学史のなかで重要な位置に収まってしまっているものであり、その後のフランスのみならず、フランスの周辺国および世界中の作家に影響を与えているのは分かる。また『パルムの僧院』のなかのファブリスをめぐる政治的駆け引き、その際になされる会話や手紙でにじみ出る才知は、半ば強引に無理矢理言えばプルーストの『失われた時を求めて』に表現される才知のものと、時代を超えてなお共鳴するようなものかもしれない。
ただ、ジーナやファブリスやクレリアの美しさや熱情および才知が好きで、スタンダール作品のファンです!という方には悪いが、私は、なんでこの作品がやたら評価されているのかね?と読み終えて思った。
スタンダールの晩年、口述で書かれたせいかもしれないが、私としては文芸というよりは脚本を書くための詳細なあらすじのメモ書きのように思え、適切な箇所に段落を設けないまま書きなぐったものに、とりあえず形を与えたもののように思える。
あまりにも多くのことが目まぐるしく起こる割には、いつ誰が何をしたかかが分かりづらい点が、上述のことと併せ悪い意味で非常に気になる。一つの長い段落のなかで、とても重要なことがあっさり語られすぎだろう。たとえば、ジーナはいつ再婚したか一瞬分からなくなることや、大公が死んだこともあっさりしすぎていて次の大公との区別が後になってかろうじて分かる、などなど。
それに伯爵夫人がいつの間に公爵夫人に表記が変わったの?とか、「侯爵夫人」というのが誰のことを指すのか、とても分かりづらい表記になっているのには、読んでいて正直いやになった。おそらく、『パルムの僧院』について詳しい人から、いろいろと細かいことを訊ねられたら、私は登場人物の名とその人物が言ったこと及び行なったこととを、ちぐはぐに答えてしまうだろう。
『パルムの僧院』のエピソードを文芸として熟成したものとするには、『レ・ミゼラブル』や『戦争と平和』や『モンテ・クリスト伯』ぐらいの分量および表現力が必要ではと思う。ファブリスのクズ野郎ぶりも徹底的に描いたらならば、それはそれで芸になるだろう。スタンダールは職業柄、政財界や外交の分野では事情通だったゆえ、人を楽しませるには申し分ない豊富なエピソード、つまりは話しのタネには恵まれてはいたろう。ただ、虚に実を混ぜれる才能をもった事情通であったことを暗にひけらかすことよりは、重要なエピソードをいかに描くかに力を注ぐべきだったのではないだろうか。

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