デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



パサージュとその前の通りとは直角になっていなかった。

一八七〇年までの道路では馬車が中心的存在だった。舗道は細くて体を寄せ合わねばならなかった。それゆえに遊歩の場は主としてパサージュであった。パサージュは悪天候からもまた馬車の交通からも守ってくれたからである。「今日、通りは広くなり、歩道もゆったりとしてきたから、パサージュ以外でも、われわれの父の時代には不可能だった快い散策が容易になった。」■遊歩者■エドモン・ボールペール『パリ今昔、街路歴代記』パリ、一九〇〇年、六七ページ     [A1a,1]

「土砂降りの雨が私に意地悪をする。雨の折に私はパサージュでそれをやり過ごした。たくさんあるこの小路は天井がすべてガラスで覆われており、いくえにも枝わかれして家並みを縦横に貫いていて、それぞれ好きな方向へ行けるようになっている。そうした小路の一部は建物をとてもエレガントにしつらえ、悪天候やこうこうと明かりに照らされた晩の折りには、素敵な店の並びをそぞろ歩く散策へと多くの人を誘うのである。」エードゥアルト・デフリーント『パリからの手紙』ベルリン、一八四〇年、三四ページ     [A3a,4]

ギャルリ・ヴェロ=ドダまでは雨が降っていて折り畳み傘が手放せなかったが、パサージュの入口で傘を折りたたみパサージュの中に入ると、たしかに『パサージュ論』の断片にあることが実感できた。路面状況が悪い場所に出現した、当時の最新技術を用いてつくられた歩行者専用のパサージュの雨もしのげる機能は思いの心地のよさを与えてくれるのだ。
ギャルリ・ヴェロ=ドダが開通したのは1826年。パリの歩道の増設、改善の動きが始まっていたとはいえ、足元が悪いせいでパサージュの魅力がさらに増していた時期だった。

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