デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



さらに奥へ歩み入る


サン=シモンはテクノクラートの先駆けである。    [U5a,3]

サン=シモン主義者たち。ブルジョワジーのなかの救世軍。    [U13a,1]

ギャルリ・ヴェロ=ドダの名称は、今に残るパサージュの近所でハム・ソーセージ屋を営んでいたブノワ・ヴェロとドダ某に由来するという。二人はフランス革命に続く混乱の時代に巧みな投機によって新興成金の仲間入りを果した。そのお金がパサージュ建設に使われたわけだが、ここで投機という言葉が出てきたこともあるし、ここでパサージュ誕生の背景についてもう少し詳しく触れさせていただこう。

サン=シモン主義者について。「エンジニアと企業家、強力な銀行勢力に後押しされた大手のやり手実業家たちのまぎれもない一団からなる一派。」A・パンロシュ『フーリエと社会主義』パリ、一九三三年、四七ページ    [U2,2]

「証券取引所では、一人のサン=シモン主義者はユダヤ人二人分の価値がある。」「株屋、パリ」(『ビルボケの回想の著者による《小パリ》』)[タクシル・ドゥロール]、パリ、一八五四年、五四ページ    [U12,1]

ブノワ・ヴェロとドダ某がサン=シモン主義者かどうかは知らないが、この断片に出てくるサン=シモンことアンリ・ド・サン=シモンが革命につづく混乱期の投機で儲けた人物なので、サン=シモンと絡めてパサージュ誕生の背景について触れたい。ちょっと長めの引用になるが、次の解説で十分だと思う。

 パサージュの誕生の直接的なきっかけとなったのは、なんといってもフランス革命である。
 すなわち、一七八九年七月十四日のバスチーユ牢獄襲撃に始まったフランス革命は、外国軍と結んだ反革命軍の国境侵犯に対する反発からしだいに過激化の様相を呈しはじめたが、そのとき、革命政府が最も切実に必要としたのは、反革命軍と戦うための予算である。政府は、この戦費を捻り出すため、教会財産の国有化(一七八九年十一月)を宣言し、ついで一七九二年二月には亡命貴族の財産も国有化し、これらの国有地を担保として多量の国債を発行することとした。これがアッシニャと呼ばれるもので、その最初の発行は、教会財産国有化直後の一七八九年十二月。当初、五パーセントの利息が付けられていたが、政府の財産逼迫にともない利息は廃止され、アッシニャは非兌換紙幣代わりに大量発行された。その結果、貨幣価値は暴落し、ほとんど紙くず同然になってしまった。
 しかし、いつの時代にも目ざとい人間はいるもので、アッシニャが国有財産と交換可能なのに目をつけて、これを底値買いする者が現れた。サン・シモン主義の教祖サン・シモン伯爵などはこの口だが、ほかにも目先のきく小型サン・シモンのような人物が各所にいて、パリの繁華街にある大貴族の邸宅や教会の敷地を次々に買い占めていった。
 パサージュの多くは、こうした投機家たちがアッシニャの替わりに手にいれた敷地から生まれたのである。
  鹿島茂『パリのパサージュ』(平凡社)

ちなみにサン・シモン伯爵の国有地取得については『パサージュ論』の[U11,1]にも断片がある。

ところで、前回「パリのパサージュ繚乱期を「夢見心地な悪趣味な時代」」と捉える人もいたことを紹介したが、サン・シモン主義はその理由を説明する一つの重要な要素になっているように個人的には思っているので、それを開陳したい。それは以下の断片にて説明および象徴されているように思う。

サン=シモンによる総合芸術の構想について(『選集』Ⅲ、三五八―三六〇ページ)。「サン=シモンは預言者、詩人、音楽家、彫刻家そして建築家がいっしょに協働することによって祭儀が発展するさまを想像していた。彼はすべての芸術が一体化して、祭儀を社会のための役に立つように、つまり祭儀によって人間をキリスト教道徳の精神にかなうよう作りかえることを要請している。」V・ヴォルギン「サン=シモンの歴史的な位置づけについて」(『マルクス=エンゲルス・アルヒーフ』Ⅰ、フランクフルト・アム・マイン)、一〇九ページ    [U5a,1]

サン=シモンについて。「彼は、労働と社会に関するあのさまざまな予測によってわれわれを驚かせるが、それなのに、何かが欠如していたような印象をわれわれに与える。……つまり、ある種の環境なのだ。環境、つまり、一八世紀をその楽天的な方向に延長させるような環境が彼には欠けていた。未来を見る人であるはずのサン=シモンは、大革命によってその頭脳ともいうべき彼の同輩たちが首を切断されたあとの社会で、ほとんど単独で思想を構築しなければならなかった。……近代実験科学の創始者であるラヴォワジエはどこにいるのか? 彼の哲学者であったコンドルセは、彼の詩人であったシェニエはどこにいるのか? ロベスピエールが彼らをギロチンに掛けなかったとしたら、彼らはまだ生きていただろう。ところがサン=シモンは、彼らの助力なしに、彼らがすでに着手していた組織化の困難な仕事を請け負わねばならなかった。そして、この広大な務めを単独で十全に果さねばならなかったので、……彼はあまりにも多くの任務を一手に引き受けるはめになった。新時代の詩人であると同時に、実験家であり、哲学者であらねばならなかったのである。」マクシム・ルロワ『アンリ・ド・サン=シモン伯爵の真実の生涯』パリ、一九二五年、三二一―三二二ページ    [U11a,4]

伝統の連続性は見せかけにすぎないのかもしれない。しかし、もしそうだとしたら、絶えず続いているというこの見せかけが恒常的に続いているということが、伝統の中に連続性を作り出しているのだ。    [N19,1]

およそ人類の歴史のなかで、パリという都市の歴史についてほど多くのことが知られているのも稀であろう。何千巻、何万巻という著書が、ひたすら地上のこのちっぽけな町の探究のためだけに捧げられてきた。すでに一六世紀には、かつてのLutetia Parisorum〔パリのラテン名〕の古代遺産をめぐるれっきとしたガイドブックが登場している。ナポレオン三世治下に印刷された帝国図書館の目録には、パリという見出し語をもつものがほぼ一〇〇ページにもわたっており、しかもここの蔵書にしてもとても完全だとはいえない。目抜き通りの多くのものにはそれだけを扱った特別な文献があるし、いかにも目立たない何千という家々についてさえ記録文書が残されている。ホフマンスタールは<この都市を>みごとにも一言で「ただひたすら生活だけから構成されているような一つの風景」と呼んだものである。そして、この都市が人間の心をとらえるその魅力のうちには、広大な風景、もっと厳密にいえば、火山地帯の風景に特有であるような種類の美しさが働いている。社会的側面から見たパリは、地理学的側面から見られたヴェスヴィオ火山と好一対をなしている。一方にはいまにも噴き出しそうな危険な深成岩塊があるとすれば、他方にはたえず活動しつづける革命の坩堝がある、といった具合。もっとも、ヴェスヴィオ火山の山腹がこのうえなくすばらしい果樹園となりえたのはその山腹を覆う溶岩のためであったのだが、それと同様に、パリでも、革命という溶岩の上に、その他のどこにも見られないような芸術と華麗なる生活とモードとが咲き誇っている。■モード■    [C1,6]

ものごとには表と裏があるけれども、少なくともアンシャンレジームおよび革命後も政治的信念や新しい思想に則って行動するより、革命後の数々の波を乗り切るほうに力を注いだ人がいて、またその人たちの中には王権が倒れたあとの国を動かす力、それを支える主義や思想にアンテナを張り巡らせた人も少なくなかったように思う。
サン・シモンはテクノクラート(高級官僚や高級技官)の命の方が、その上司にあたる人間(王族や王権に近い貴族)の命より重いと考えていたと理解しているのだが、これは産業階級の人間たちが相談しあって事実上の国の運営および舵取りをすることである。



天井画もきれいに残っている。


いささか短絡的な書き方だが、やはりここには近代資本主義成立の動因があると見てよいように思う。ただ、それには革命という溶岩が必要だったし、伝統の連続性を保っていたとはいえ先輩アドバイザーの欠けた、または居ないなかで自ら育んだ思想の樹を、18世紀の先人のいない溶岩の上に植樹しなければならなかったものだから、18世紀人(パサージュ建設繚乱期のパリを嘆かわしい気持ちで目の当たりにした保守の人たち)の目からすれば、例えばギャルリ・ヴェロ=ドダの売り文句であった「高級なパサージュ」といったようなギャルリは、それこそ、王宮の廊下を真似たまがいもの、キッチュなものと映ったのではないだろうか。
つまりは、革命のせいで追いやられた人たちがパサージュ繚乱期をどのような目で見ていたのか想像してみたわけである。こういった背景についていろいろ考えていると、次の断片に目が行ってしまった。

ボードレールは生涯、御曹司気質のままだったとポルシェは指摘している(二三三ページ)。この点について次の文はたいへん参考になる。「すべて変化というものには、浮気や引っ越しに似た何か忌まわしくかつ快いところがある。これだけでフランス革命は十分説明がつく。」〔「赤裸の心」四〕。この発言から、やはり御曹司だったプルーストのことが想い起される。歴史的なものが私的なものの中に投影されているわけだ。    [J28a,3]

国の変化を、どういった立場の人間の視点でとらえるのか、また別の思わぬ観点を示されたかのようだった。私にとっては紋切り型の史観に打撃を与えるような断片である。

次こそ、ギャルリ・ヴェロ=ドダ自体をメインに書きたい(笑)。



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