デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



パリの中のヴェネツィア?

私がパリのパサージュについての記事を書くのに大いに参考にさせていただいている本のギャルリ・ヴェロ=ドダの項にはこのパサージュのことを「パリのなかのヴェネチアで」と記してあるのだが、ヴェネツィアのごく一部、サン・マルコ広場の回廊に並んでいる店の並びにはまぁ似ていないこともない。ただ、ヴェネツィアそのもの、という感じではないように思う。

さて、ギャルリ・ヴェロ=ドダだが、『パサージュ論』にも登場している。表記は「パサージュ・ヴェロ=ドダ」となっているが。

パサージュ・ヴェロ=ドダは、クロワ=デ=プティ=シャン街とジャン=ジャック=ルソー街を結んでいる。一八四〇年ころカベ〔19世紀仏の著述家・ユートピア主義者〕は、そのジャン=ジャック=ルソー街にある彼のサロンで何度か集まりをもった。その集まりの空気について、マルタン・ナドー〔仏の労働者出身の政治家〕の『もと石工見習いレオナールの回想録』が次のように伝えている。「彼は使ったばかりのタオルと剃刀をまだ手に持っていた。〔労働者の〕われわれがきちんとした服装をし、堅実な様子なのを見てすっかり喜んでいるようだった。彼はこう言うのだった。「ああ、殿方(メシュー)(市民同志たちとは彼は言わなかった)、政敵がみなさま方を知ったなら、とやかく言う気持ちが挫けてしまうでしょう。みなさま方の身なり、物腰は、この上なく育ちのいい人たちのものです。」」シャルル・ブノワ「一八四八年の人」Ⅱからの引用(『両世界評論』一九一四年二月一日号、六四一―六四二ページ)。カベを特徴づけているのは、労働者は執筆活動する必要はないという意見をもっていたことである。    [A9,3]

サン=シモン主義者は民主主義に対して、ほんのわずかしか共感を持っていなかった。    [U13,2]

ユートピア主義者がパサージュの傍でサロンをもっていたというのには何かの象徴のように思えてしまうのだが、この断片に限ってはそれに加え、差別を区別と言い換える詐術を用い、他人が自分のテリトリーに入ってこられることを心底嫌う実は貴族主義者のインテリの扇動家の肖像をイメージしてしまう(笑)。


反射鏡の台座にある装飾

不動産とならぶ家具の重要性。ここでわれわれが果すべき仕事は、ほんの少しだけ簡単である。つまり、時代遅れとなった事物の心臓部に分け入り、月並みなものの輪郭を判じ絵として解読し、鬱蒼とした森の内奥から隠された「ヴィルヘルム・テル」を探し出すこと、または「花嫁はどこだ」という問いに答えることは、比較的簡単である。精神分析は、判じ絵が夢解釈の依拠すべき図式であることを、とっくに発見している。しかし、われわれがこのような精神分析の確信を抱いて探究するのは、心ではなく、事物である。われわれは、諸々の事物からなるトーテム・ポールを、根源の歴史〔Urgeschichte〕の茂みのなかから探し出すのだ。このトーテム・ポールの一番上にくる最後の渋面は、キッチュである。    [I1,3]

この断片には、反射鏡の台座にある装飾の画像が合うように勝手ながら思った。
『パサージュ論』にはパリのパサージュ繚乱期を「夢見心地な悪趣味な時代」として見る文を引用した断片もあって、たとえパサージュが美しかろうが、パサージュについてフーリエが何を言おうが、パサージュについてマイナスの意見を持っていた人たちの見方が知ることができるのが、『パサージュ論』のいいところだと思っている。
「最後の渋面(じゅうめん)は、キッチュ」とあるけれども、ドイツ語のキッチュって「(芸術上の)まがいもの、まやかし、俗悪」の意味だから、図らずも?鉄骨建築の黎明期のパサージュに当てはまる表現としてはいい得て妙な面がある。

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