デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



照明の管はガス管の分をそのまま使用しているのかも。

パサージュ――パサージュは帝政時代のパリでは妖精の洞窟として光りを放っていた。一八一七年にパノラマ・パサージュに足を踏み入れた者には、片側でガス灯のセイレンたちが歌いかけ、その向かい側からは石油ランプの炎のオダリスクたちが誘いかけてきた。電灯がともるとともに、こうしたパサージュの通路の見事な輝きは消えてしまって、突然にこうした通路はみつけがたくなった。道路は、出入口で黒魔術を行っており、暗い窓の奥から自分自身の内部を覗き込んでいたのである。    [T1a,8]

「……このガスの炎の下で、商業の死後に見舞われた場所。……代金が支払われないのではないかと恐れて震えているかのようだ。」ルイ・ヴイョ『パリのにおい』パリ、一九一四年、一八二ページ    [T1a,3]

現在パリのパサージュにある照明は電気を用いたものだが、1817年パサージュ・デ・パノラマに試験的にガス灯が設置されてからというもの、それまで街灯に用いられていたオイルランプはガス灯にとってかわられた。
「光輝くパサージュが道路のあいだを貫いて登場して以来、パレ・ロワイヤルはその魅力を失った。…」[I2a,3]『パサージュ論2』(岩波現代文庫)という断片を以前引用したことがあるが、この断片の光にはたとえ明るさが安定せずゆらゆら揺れるような妖しげな照明であっても、ガス灯の明るさのおかげでパサージュが盛り場を凌駕したのかもしれないと思った。
今の夜のパリはなんとか一人で歩ける町ではあるが、19世紀以前のオイルランプで町の一部に街灯が点っていた頃と、19世紀からガス灯が登場しパリに普及してからの町の明るさはかなり異なっているということは、断片でも窺い知ることができる。
パリのガス灯は1839年から徐々に増え、1890年に最盛期を迎えた。


おそらくガス灯の頃はもうちょっと暗い?

パリのガス灯は、盛り場の覇権の移動やパサージュの隆盛と衰退と軌跡を同じにしているように思っている。そんなガス灯も衰退するときがやってくる。より安定した電気による照明が登場してから、ガス灯は街灯の主役の座を譲るのであった。ガス灯は第一次対戦、第二次大戦の間に消滅した。

ちなみに、パリでの電気による照明の実験は1843年10月20日コンコルド広場で試みられた。市当局が電気照明を採用するのには、1887年5月25日にオペラ・コミック座で起きたガス・ランプによる火事というきっかけが必要であった。


ファザードのガラスは何故かくもって見える分もあった。

ガス灯による街灯があったとはいえ、パサージュに据え付けられた明かりは、やはりパサージュに人の足を運ばせる効果があったように思う。夜のパサージュは妖しげでいかがわしく街娼が出る場所でもあったわけだから、なおさら?
ただ、町自体が明るすぎる今となっては、パサージュに入るのに躊躇してしまいそうになるのかもしれない。

街灯のことを調べていくうちに、プルーストの『失われた時を求めて』の時代はパサージュの衰退期で、あの小説の中では、もう鉄道や電話、自動車、飛行機までが登場していることを思い出した。
そういえば、ベンヤミンの『パサージュ論』は、プルーストの書く過去を追悼する方法からかなり影響を受けている。いずれまた触れたい、大きいテーマだが…。


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