デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ルーヴル博物館の近く、サントノーレ通り沿いにあった骨董店

「なぜ、この物語に『骨董屋』という題がつけられたのか、一見したところ……特に理由はないように思われる。人物たちのうちでこの種の店に何か関係があるのは二人だけだし、しかも二人とも物語が始まって間もなく骨董屋を出てしまって戻ることはないのだ。……しかし、もっと辛抱強く問題を検討すれば、この表題は、ディケンズの全小説の一種の鍵なのだと分かるのである。彼の物語はいつも街路で見た何かの思い出が出発点だった。店舗というのは、おそらくあらゆるもののうちで一番詩的なものだが、これがたびたび彼の想像力をつき動かし解き放したのである。実際、どの店も彼には小説の構想のきっかけとなるのであった。すでに述べた一連の多様な構想のうちでも……、『街路』という題の、尽きることなき構想の実現に着手して、店の一つ一つに一章を当てるということをしなかったのは不思議と言ってよい。ことごとく『骨董屋』と対になる『パン屋』『薬局』『油屋』といった魅力的な小説を彼は書くことができたはずなのだ。」G・K・チェスタートン『ディケンズ』ロラン・マルタン=デュポン訳、パリ、一九二七年、八二―八三ページ    [A11,3]

『パサージュ論』を見返してみて、こういう断片をすっかり忘れていたりした。ルーヴル博物館のすぐ近くに骨董店があって、非常にひきつけられるディスプレイだった。時間がなくて入れなかった。今となっては仕方がないことだが、店に入ってみたいなぁと思ったことは確かだ。


フランス文化省の建物



雨のクロワ・デ・プティ・シャン通り(左側)とブロワ通り(右側)

アスファルトは最初は歩道に用いられた。     [M5,9]

雨のパリは風情こそあれどやっぱり徒歩での移動にあってはうっとうしいものでしかない。しかし、現代では歩道だけでなく路面も整備されているから、19世紀の路面と比べれははるかに歩きやすく汚れがひどくは付着しない路面なのだろう。
アルフレッド・フィエロ著『パリ歴史事典』(白水社)によれば、1820年代前半には、まだパリに適切につくられた歩道は少なかった。建物の所有者が自分の家の前に歩道を設けるための助成金として市議会から一万フランの予算を取り付け、その維持費を市の負担としたのが1826年。そのころからパリの歩道の数は増えていくが、1836年以降それまで敷石として使用されていたオーヴェルニュの溶岩材に代わって、はるかに安価なアスファルトが登場する。1840年には、大部分の通りに歩道が付けられていた。


ギャルリ・ヴェロ=ドダはもう近い

ちなみにパリでの歩道ではない一般の路面に初期のアスファルトが舗装に利用されたのは1837年12月コンコルド広場においてである。

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