デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ブロワ通り側入口。かつて大型乗合馬車の発着場があった。

一八五二年の『絵入りパリ案内』はセーヌ河畔の町パリおよびその周辺の細大漏らさぬ見取図であるが、そこには次のようにある。「都心の大通りとの関連で繰り返し思い出されるのは、この大通りから入ったところにあるパサージュのことである。産業による贅沢の生んだ新しい発明であるこれらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石が貼られている。建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ。光を天井から受けているこうした通路の両側には、華麗な店がいくつも並んでおり、このようなパサージュは一つの都市、いやそれどころか縮図化された一つの世界とさえなっている。■遊歩者■ この都市で買い物好きは必要なものはなんでも手に入れることができよう。にわか雨に襲われたときには、パサージュは混み合って狭くなるが、逃げ場として安全な遊歩道を提供してくれる。そういうときは売る側もそれなりに儲けに浴することになる。」■天候■
これは、パサージュを描いた古典的な名文〔locus classicus〕である。この文章から出発して遊歩者や天候についてのさまざまな思いが解きほぐされているが、それだけではない。パサージュの建設のあり方について経済的および建築上の観点から言えるさまざまなことにとってもうってつけの箇所となろう。    [A1,1]

同じことをもうなんどか書いているが、19世紀のパサージュそのものという雰囲気がそのまま残っているギャルリ・ヴェロ=ドダで再度引用しておきたくなった。
この引用にある都心の大通りとの関連でいえば、ギャルリ・ヴェロ=ドダの入口に面しているブロワ通りとジャン=ジャック・ルソー通りに、かつて前者には《メサジュリ・カヤール・エ・ラフィット》(のちに合併し《メサジュリ・ジェネラル・ド・フランス》と改称)の大型乗合馬車の、後者には郵便馬車の発着場があったことが、パサージュ繁栄を説明する格好の一つの例になっている。つまり大型乗合馬車や郵便馬車の発着場に近い場所にパサージュを建造することは重要な戦略であった。なにせ人が集まる条件としては最高の場所の一つなのだから。
『パサージュ論』には馬車についての断片が少なからずある。

「一八二八年一月三〇日、最初の乗合馬車がバスティーユからマドレーヌまでのブールヴァール線を走った。運賃は二五ないし三〇サンチームであり、車は客が望むところで停車した。客席は一八から二〇あり、その路線は二区間に分けられていて、サン=マルタン門が境目であった。発明の流行は常軌を逸していた。一八二九年には、この会社は一五の路線を開いたが、これに対して「三輪馬車(トリシクル)」、「スコットランドの貴婦人(エコセーズ)」、「ベアルンの貴婦人(ベアルネーズ)」、「白い貴婦人(ダーム・ブランシュ)」といったライヴァル会社が競争を挑んだ。」デュベック/デスプゼル、前掲書、三五八―三五九ページ    [M3a,8]


「乗合馬車、この馬車のお化け、そして雷のような速度で行き交うこれほど多くの馬車!」テオフィル・ゴーティエ[エドゥアール・フルニエ『解体されたパリ』第二版、テオフィル・ゴーティエ氏の序文つき、パリ、一八五五年、Ⅳページ](この序文は――おそらくは第一版の書評としてであろうが――一八五四年一月二一日の『モニトゥール・ユニヴェルセル〔世界週報〕』紙に掲載された。これは『一九世紀のパリとパリっ子』パリ、一八五八年、に収められたゴーティエの「廃墟のモザイク」のテクストとまったくあるいは部分的に同じであろう。)    [M9,3]


最初の乗合馬車について。「すでに「白い貴婦人」という競争相手ができたばかりである。……この馬車は全体が白一色に塗られている。御者は白い……服を着て、警笛ペダルに足をかけて、「白い貴婦人」〔三幕もののオペラ・コミック。一八二五年一二月一〇日にオペラ・コミック座で上演〕のメロディーを口ずさんでいる。「白い貴婦人があなたを眺める……。」」ナダール『私が写真家だった頃』パリ、<一九〇〇年>、三〇一―三〇二ページ(「一八三〇年前後」)   [M5,4]


乗合馬車の中に乗客の数を示す文字盤があった。何のためか。乗車券を売る車掌が計算の手掛かりとするためである。    [M7,10]


石版画。「乗合馬車の御者と競争する辻馬車の御者」パリ国立図書館版画室    [M7,2]


乗合馬車の乗換駅においては、座席の権利を得るために、乗客は整理番号順に呼ばれると、返事をしなければならなかった。(一八五五年)    [M7,4]


一八五七年ころには(H・ド・ペーヌ『内側から見たパリ』パリ、一八五九年、二二四ページ参照)、乗合馬車の二階席に女性は乗ってはならないことになっていた。    [M8,5]


ヴィクトール・ユゴーについて。「午前中、彼は部屋にいて仕事をする。午後になると、街を彷徨して仕事をする。彼は乗合馬車の最上席、彼が名づけるところによれば移動式バルコニー席(バルコン・ルーラン)が大好きであった。この席から彼は心ゆくまで巨大都市のさまざまな相貌を研究することができた。彼は、耳を聾するパリのざわめきが海と同じ効果をもたらすと主張していた。」エドゥアール・ドリュモン『青銅の彫像または雪の彫像』パリ、一九〇〇年、二五ページ(「ヴィクトール・ユゴー」)    [M8a,3]


乗合馬車を作ってはとの最初の提案はパスカルに由来しており、ルイ一四世のもとで実現した。しかし、その時は特徴的な制限がついていた。「兵士、小姓、従僕その他の召使、それに人夫や労働者も、前記の有蓋四輪馬車に乗ることはできない。」一八二八年に乗合馬車が導入されたが、あるポスターには、乗合馬車についてこう記されている。「これらの馬車は……新発明のラッパを鳴らしてその通行を知らせる。」ウジェーヌ・ドリアック『フランス産業のこぼれ話』パリ、一八六一年、二五〇、二八一ページ    [M7a,3]


「注目すべきことは……乗合馬車がそれに近づくすべての人々の気持ちを和らげ、体の動きを鈍くさせるように見えることだ。乗り物客相手の商売で生計を立てている人々は……たいてい、がさつな騒々しさでそれとわかるが……そのうち、ほぼ乗合馬車の従事者だけが、騒々しいそぶりを見せない。まるで重い車から、冬の初めにマーモット〔モルモット〕や亀を冬眠させる作用力に似た、穏やかで眠気を誘う作用力が流れ出ているかのようだ。」ヴィクトール・フールネル『パリの街路に見られるもの』パリ、一八五八年、二八三ページ(「辻馬車の御者、貸し馬車の御者、乗合馬車の御者)    [M7a,1]


一八五七年にはまだ、朝六時にパヴェ=サン=タンドレ通りからヴェニス行きの馬車が出ていた。これでヴェニスまで行くには六週間かかった。フールネル『パリの街路に見られるもの』    [M7,9]


一八五一年にはまだ、パリとヴェニスの間は定期的な郵便馬車で結ばれていた。    [M6,7]


「最後の乗合馬車は、一九一三年一月にラ・ヴィレット―サン=シュルピス間を走った。最後の市街鉄道馬車は、同じ年の四月に、パンタン―オペラ間を走った。」デュベック/デスプゼル、前掲書、四六三ページ    [M1a,4]

それにしてもこの細かい調べ方、馬車に関する断片ですら19世紀の様子をここまで豊富に引用したものであるとは脱帽するしかない。「根源の歴史のために一九世紀のある部分を征服したいと思っている」と書いたベンヤミンの野心的な姿勢については、ベンヤミン自身が書いている。根源の歴史のために取るベンヤミンの方法は、これまたなかなか理解がしづらいものだが、とりあえず歴史に対する姿勢についての記述の一部を紹介させていただこう。

私がこの仕事の基調となっている傾向を〔ルイ・〕アラゴン〔20世紀仏のシュルレアリスト。後に仏共産党の大立物になる〕のそれと区別するのは次の点である。アラゴンが夢の領域に留まろうとするのに対して、私の仕事では覚醒がいかなる状況であるのかが見出されねばならない。アラゴンの場合には、印象主義的な要素――それは「神話」と言われる――が残されている。彼の著作〔『パリの農夫』〕には、明確な形姿を持たない哲学的思考要素がさまざまあるが、それはこの印象主義によるものである。これに対して私の仕事では、「神話」を歴史空間の中へと解体しきることが問題なのである。それは、過去についての未だ意識化されていない知を呼び覚ますことによってのみ可能となる。    [N1,9]


歴史を記述するということは、出来事があった年にその相貌(フィジオグノミー)を与えることである。    [N11,2]


歴史家をとりまいていて、歴史家がいま関わっている出来事はテクストであって、炙り出しインクで書かれたテクストとして歴史家の記述の基礎となる。歴史家が読者に提示する歴史は、いわばこのテクストにおける引用になっている。そしてこの引用だけが、だれにとっても読み解くことのできるものとして提示されているのだ。歴史を記述するということは、つまり歴史を引用することである。しかし引用するということには、その都度の歴史的事象をその連関からもぎ取ってくるということが含まれている。    [N11,3]

それぞれの時代に生ける者は、歴史の正午に自分自身を知る。彼らには過去のために饗宴を整える義務がある。歴史家は、死者を宴卓に招待するために遣わされた者である。    [N15,2]

『パサージュ論』の核心部に触れだすとあと何回の記事の更新が必要になることだろう…。ベンヤミンは研究姿勢の妥協のなさ、どのような微細なものでさえも救い出そうとする徹底力、人の感情よりも事物が語りかけてくることに耳をすませられる詩的感覚、蒐集家の顔、あらゆる能力や側面を同居させている人だったんだろうなぁと、今になってようやくという感じではあるが、そう思うようになった。
ベンヤミンの方法についてはまた触れていこうと思う。次はギャルリ・ヴェロ=ドダ自体をメインに書きたい。

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