デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



工事のせい?か、ガラス屋根が暗い…

パサージュ・ショワズールの第一印象は、なんにも畏れ多くなく、気軽に入れなんら抵抗を覚えない、最もタイムトンネルらしくないパサージュというものだった。
それは逆に言えば現地としてはありがたいことであって、商売が繁盛しているということだ。ガイドブックにあった散文的なパサージュというのも確かにうなずけるけれども、現代でも十分に機能しているパサージュとしても注目していいように思う。



パサージュ・ショワズールは1827年に開通した。建設の狙いは何度か触れている盛り場パレ・ロワイヤルと盛り場の覇権を握ろうとしていたグラン・ブールヴァールを結ぶ通り抜け道として客を呼び込もうというものであった。その頃は今では想像が難しいが、馬車が公共交通機関として当然のようにあったわけだから、馬車が通る狭い道よりは、歩行者専用のパサージュを抜けようというのが客の心理としては大きかった。
またこのパサージュは多くの文学作品に引用され、多くのパルナス派(高踏派)の詩人や文学者が出入りしていたという。


64とあるからここなんだろうと思う。

パサージュ・ショワズールの六四番地にはかつてデトゥーシュ一家が骨董店を構えていた。このデトゥーシュ家の一人息子がルイ・フェルディナン、のちに『夜の果ての旅』や『なしくずしの死』を書くセリーヌ(「セリーヌ」はペンネーム)である。『なしくずしの死』には「パサージュ・デ・ペレジナ」の名称のもと、当時のパサージュ・ジュフロワを克明に描いた場面がある。
その箇所は私も読んだが、今のパサージュの小奇麗な様子とはまったく異なる。それは当然といえばそうなのだが、当時の様子を偲ばせるものを探すのが困難すぎるというのはちょっと寂しいかもと思った。

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