デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




フィリポン〔19世紀仏の諷刺画家〕の漫画新聞『カリカチュール』紙の発行所は、パサージュ・ヴェロ=ドダにあった。    [A9a,3]

一八三〇年の版画は好んで、しかもしばしばアレゴリー的にさまざまな新聞の間の構想を描き出している。またこの時期の版画は、たくさんの人がいっしょに読まねばならないような新聞のありさまを好んで描いた。またこうした版画は、新聞の所有をめぐって、あるいは新聞が主張している意見をめぐって起こるいさかいも描いている。国立図書館版画室、一八一七年の版画『新しもの好き、あるいは政治マニア』    [U11a,7]

一八世紀が終わったあとの時代について歴史的に研究することにつきまとう特別な困難を叙述すること。大新聞が出現してからというもの、資料は見通しのつかないほど膨大なものとなった。    [N4a,6]

ギャルリ・ヴェロ=ドダには諷刺画入り新聞「カリカチュール」や「シャリヴァリ」とタイアップして石版画を売るオベール商会のような流行の業態が入居していた。
ベンヤミンの『パサージュ論』は産業革命後の世界、すべてのテンポが速くなりだした時代を、19世紀の集団の夢から覚めた状態で余すことなく書こうとしたものといいかえることができるように思うが、新聞メディアの発達もおよび速度もその時代に急激に速くなりだした。ベンヤミン愛好家に怒られるかもしれないが、なにものも放棄しないで論をすすめる気概はあれど、ぼろ・くずに喩えられそうな新聞の細かい記事を選択し正当な位置を与えようにも、私なんかはやっぱり途中で投げ出したくなるかもしれないんじゃないかなぁと思う。



また同じような単調な画像…。私はよほどシンメトリックが好きなのか(笑)。
どのパサージュでも人様にカメラを預けて、自分の姿が入った画像の方が構図的にいいものが多かった。


38番地だ

パサージュ・ヴェロ=ドダには大理石が敷きつめられていた。かの女優ラシェル〔19世紀仏の古典劇の名優〕もしばらくそこに住んでいた。    [A1a,4]

一度パサージュを出てもう一度入ったのは、19世紀の大女優がかつて住んでいたところを撮りたく思ったからであった。オベール商会がテナントに入っていた38番地の2階に、女優のラシェルが1838年から42年まで居を構えていたのだ。

アルフレッド・ミュッセは、ラシェルとパレ・ロワイヤルのアーケードで出会った後、一夜を彼女のこのアパルトマンで過ごした思い出を『マドモワゼル・ラシェルの家での夜食』という短編に残している。
  鹿島茂『パリのパサージュ』(平凡社)

盛り場やパサージュでのロマンスって本当にあったんだな。劇になるのも分かる気がする。

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