デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



一旦ブロワ通りに出た瞬間だった

都会の雨には子どもの頃を夢のように思い起こさせるという、あなどれない魅力がある。しかしそれは、大都会に育った子どもでなければわからない。雨はいたるところでますます多くのものを隠してしまい、日々を灰色にするばかりか、どこもかしこも同じようにしてしまう。そんな日には朝から晩まで同じことをしていられる。例えばチェスをしたり本を読んだり喧嘩をしたり。ところが太陽はこれとはまったく逆で、時間に陰影を付け、夢想家を居心地悪くさせる。それゆえに夢想家は輝くばかりに太陽の照る日は巧みな術を使って避けなくとはならない。何よりも、のらくら者や港をぶらつく者や浮浪者のように朝早く起きてなくてはならない。というのも、彼は太陽より早くしかるべき場所に出ていなくてはならないのだから。フェルディナント・ハルデコップ〔表現主義の詩人〕はドイツが生みだしたただ一人の真のデカダンであるが、彼は、エミー・ヘニングス〔ダダイズムの女性詩人〕に何年も前に贈った「至福の朝」という頌歌のなかで、太陽の照る日をやり過ごす最良の防御策を夢想家のために伝授している。    [D1a,9]

この断片を見つけたのはこのブログでパリのパサージュのことについて触れだしてからだが、今ではこの画像に合う断片だと思っている。

近代的な技術の世界と、神話のアルカイックな象徴の世界の間には照応関係の戯れがある、ということを否定できる者がいるとすれば、それは、考えることなくぼんやりものを見ている者ぐらいだ。技術的に新しいものは、もちろん初めはもっぱら新しいものとして現われてくる。しかし、すぐそれに引き続いてなされる幼年時代の回想の中で、新しいものはその様相をたちまちにして変えてしまう。どんな幼年時代も、人類にとってなにか偉大なもの、かけがえのないものを与えてくれる。どんな幼年時代も、技術的なさまざまな現象に興味を抱くなかで、あらゆる種類の発明や機械装置、つまり技術的な革新の成果に向けられた好奇心を、もろもろの古い象徴の世界と結びつけるものだ。自然の領域では、好奇心と象徴世界とのこうした結びつきを初めから持っていないようなものはなに一つとしてない。ただし自然においては、この結びつきが新しさというアウラの中でではなく、慣れ親しんだもののアウラの中で作られるのである。つまり回想や、幼年時代、夢の中で。■目覚め■    [N2a,1]

画像に写っている子どもには最新のパリと19世紀のパリの姿、その両方ともがかけがえのないアウラとなるのだろうか。



ボードレールが抒情的表現として初めて切り開いた対象のなかでも、一つのものがきわだっていると言えるだろう。すなわち悪天候である。    [D5,4]

外国で悪天候に見舞われてしまうと気持ちが萎えてしまうこともあるが、一日の間に何度も晴れ曇り雨と交互に天気が入れ替わるような日もある。私がこの旅行で雨にもよく遭遇したが、天気のおかげで抒情的な場面に何度か遭遇することができた。そういったときの画像もいつの日か紹介したい。

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