デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



西教会の傍のアンネ・フランクの像
(トラムのWestermarkt駅からプリンセン運河に曲がる角にある)

ええ、そうなんです、わたしは世間の大多数の人たちにように、ただ無目的に、惰性で生きたくはありません。周囲のみんなの役に立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。わたしの周囲にいながら、実際にはわたしを知らない人たちにたいしても。わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること! その意味で、神様がこの才能を与えてくださったことに感謝しています。このように自分を開花させ、文章を書き、自分のなかにあるすべてを、それによって表現できるだけの才能を!  (1944年4月5日)

 あなたにも容易に想像がつくでしょうが、《隠れ家》のわたしたちは、しばしば絶望的にこう自問自答します。「いったい、そう、いったい全体、戦争がなにになるのだろう。なぜ人間は、おたがい仲よく暮らせないのだろう。なんのためにこれだけの破壊がつづけられるのだろう」
 こういう疑問をもつのはしごく当然のことですけど、これまでのところ、だれもこれにたいして納得のゆく答えは見だしていません。そもそもなぜ人間は、ますます大きな飛行機、ますます大型の爆弾をいっぽうでつくりだしておきながら、いっぽうでは、復興のためのプレハブ住宅をつくったりするのでしょう? いったいどうして、毎日何百万という戦費を費やしながら、そのいっぽうでは、医療施設とか、芸術家とか、貧しい人たちとかのために使うお金がぜんぜんない、などということが起こりうるのでしょう? 世界のどこかでは、食べ物がありあまって、腐らせているところさえあるというのに、どうしていっぽうには、飢え死にしなくちゃならない人たちがいるのでしょう? いったいどうして人間は、こんなにも愚かなのでしょう?
 わたしは思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家にだけあるのではありません。そうですとも、責任は名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら、世界じゅうの人びとはとうに立ちあがって、革命を起こしていたでしょうから。もともと人間には、破壊本能が、殺戮の本能があります。殺したい、暴力をふるいたいという本能があります。ですから、全人類がひとりの例外もなく心を入れかえるまでは、けっして戦争の絶えることはなく、それまでに築かれ、つちかわれ、はぐぐまれてきたものは、ことごとく打ち倒され、傷つけられ、破壊されて、すべては一から新規まきなおしに始めなくちゃならないでしょう。   (1944年5月3日)
     深町眞理子訳『アンネの日記』(文藝春秋)













ミュージアムショップを出てから、しばらく「アンネ・フランクの家」の周囲をぶらぶら歩いて、上に引用した内容のことなどについてぼんやり考えていた。アンネ・フランクの家のインパクトは沖縄の糸数壕に入ったときと同じぐらい強かった、また、『日記』はどうしてこれほどまでに心を打つのか、日本人の戦争体験者の証言と、なにがどう異なるのかなど、いろいろ考えていたように思う。
戦争や紛争のあらゆる側面、起因、誘因についてはあらゆる角度から検証しなければならないと思うが、個人的所感として日本の場合、「臣民も生活苦などの負担を強いられた」「身内の者を出征で喪った」「参戦は無謀であることがわかってた」「敵兵を迎え撃つための銃の形をした木を用いた学校の訓練はおかしかった」「戦域拡大させて儲けようとする、まさに"信者"をつくりだそうとした(「信」「者」と書いて「儲ける」とはうまく言ったものだ)企業や国のプロパガンダにだまされていた」などと被害に遭ったことを語られても、敗戦となればさっさと教科書に墨で線を引けてしまえ、日本が快進撃をつづけている間は熱狂し国を支持し戦争を支持したさまざまな戦中を生きた方々の証言を聞いても、いつもどこか頭の片隅でひっかかるものが、現地でも私の中に存在しているのだった。(ショーロホフの『静かなドン』のときにも書いた「かつて熱狂したではないか」という負い目の問題と同じ)
その点、敗戦国でも戦勝国でもない戦争被害者であり、若くして将来の希望を人種差別政策で奪われた少女による才気に溢れ表現力豊かな手記、また彼女の短い生涯に起こった数々の出来事がドラマとしても完璧すぎるといった各々の内容には、誰もがひれ伏す葵の御紋のついた印籠みたいに感じられてしまう。そんなことを「アンネ・フランクの家」に行列を作る人々を横目にしたり、プリンセンクラフトをぶらつきながら考えていた。
今となっては、日本本土および沖縄のみならず、満州や東南アジアの現地で目にされた戦闘や困窮生活、捕虜になることを恐れたり負傷したり病気になったりして動けなくなった身内の人間に自ら手を下したりしたことなど、老境に入ってもなおずっと語ることのできなかった年配の方々の辛い体験談・証言と、『日記』の内容とに優劣の差があるわけではなく、それぞれに語られるべきタイミングが存在しているように思う。また、これからも重い口を開いてくださって出てくる事実に即した本物の戦争証言はずっと伝えていくべきだと思う。紙および映像その他で何らかの形で貴重な肉声を残すにもそこまで困難ではない時代なのだから。
「紙は人間よりも辛抱づよい」ということわざを、アンネは日記の最初の方と中ほどで引用している。人間も紙に負けないくらい辛抱強くならなければならないことがいくつかあることを、「アンネ・フランクの家」は私に一時でも考えさせてくれたのだった。


冒頭の像の横のベンチにて


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ミュージアムを出た後で

しかし、アンネ・フランクの家は、『アンネの日記』の内容と展示品との関連を逐一照らし合わせてゆっくり見学できるところではなかった。実際のところ、動く本棚の手前で見た隠れ家の模型が置いてある部屋では入館者で混みだしてきたし、アンネの部屋を過ぎてからは次の展示までゆっくりとしか歩みを進めることができないのであった。


再び西教会

ペーターの部屋までくると、ぎゅうぎゅうというほどではないが、見学の列がなかなか進まず混みあってきた。注意力が散漫になり、アンネ・フランクの家を課外授業か遠足か何か訪れている子どもたちの中に、ラップが流れているイヤホンをつけたままさっさと展示室を通り抜けようとしたり、友だちとふざけあったりしている光景などが目に付きだした。
ペーターの部屋から踊り場に出、外を見た時に西教会の時鐘の音が聞こえてきた。隠れ家に潜行していたアンネが見上げていた空や、耳にしていたかもしれない鐘の音かもとか思った。
ホロコーストで使用されたフランク家の家族の名が載った書類、ベルゲン=ベルゼン収容所でのアンネの様子について語るハンネリ・ゴスラル婦人のビデオ、逮捕された中で唯一生き残ったアンネの父オットー・フランクのメッセージビデオを見た後、アンネが実際に使用していた日記帳と彼女直筆のノートが展示されている部屋まで来た。
実物の日記を目の前にした時点での『日記』の内容についての個人的所感は、平和を考えさせることうんぬんよりは、13~15歳の女の子が家族との関係や同居人に対する繊細な思春期独特の情感、学校生活や自分自身の成長に対する戸惑い、ユダヤ人ということだけで発生する世の不条理に対する憤懣、将来の夢などについて思春期の人間しか書けない一級の資料、どんな作家でもここまでリアルかつ赤裸々に子供の内面を表現することは難しいだろうというものだった。
実際の彼女の直筆の筆跡を見たところで、私には「キティー」しか分からなかった。英語で対訳してあるプレートをなんとか読もうとしたが、自分の英語力では厳しかったのは否めなかった。世界各国の言語に訳された『日記』も展示されているのを見て、紋切り型のようだがやっぱり世界中で読まれているのだなぁと思った。

ミュージアム・ショップと出口への螺旋階段を降りながら、よく晴れている日だなと、これなら国立ミュージアムも行きやすい、その前に腹ごしらえしなきゃと思った。





出口とミュージアムショップ

ミュージアムショップで、送りたい分数枚と自分用に3枚の絵葉書を買った。


昼の12時五分前になると行列が長くなっていた



アンネ・フランクの家の現在の外観


つづく

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アンネ・フランクの家の入口

館内は撮影禁止で残念だったが、撮って残すことより『アンネの日記』の概要を頭に入れておいて見学したほうが遥かに充実するだろう。
ミュージアムはまずナチスによる反ユダヤ政策の時代を紹介していた。そしてフランク家が潜行した建物の「表の家」の展示では隠れ家の協力者でアンネの日記をずっと保管していたミップ・ギースが出演していた宣伝映画も映し出されていた。
アンネの父オットー・フランクは、オペクタとペクタコンという二つの会社を持っていて、両方とも「隠れ家」の建物の中にあった。フランク家が潜行したのは会社の建物の裏の家なのである。
会社の事務所で使われていた帳簿やタイプライター、オペクタ社の製品のポスターやチラシも展示されてあって、実際に会社の作業が行なわれていたことも分かるようになっていた。
そして、アンネたちが住む部屋を隠す目的でつくられた動く本棚を見たとき、「うわぁ…」と何か身震いするものを感じたことは否定できない。ミュージアムガイドにフランク家がナチスに逮捕されたあと、ナチスは隠れ家を空にしたとあったので、当時の部屋の様子を再現したものは模型しかないが、アンネとその姉マルゴーの両親が彼女らの身長を記録した壁の線や、アンネがいた部屋に飾られていた有名人の写真やポスターは展示されていて、息の詰まるような生活をしながらも懸命に生きていた様子や、アンネが将来の夢を持った普通の少女であったことを感じさせるには充分だった。

つづく

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プリンセン運河の方へ

『アンネの日記』は深町眞理子訳で読んだことはあった(2003年に出版された増補新訂版は未読)。読んだきっかけは、第二次大戦を題材に戦争や平和のことを考える授業の資料で引用されていたことだった。


乗ってきたトラムが行く



来た方向を振り返ってみた




このポストのところから地図に従って歩き、左手にプリンセン運河を目にすると、とうとう来てしまったのだなと思った。


プリンセン運河

『アンネの日記』の初読の時には、SS(ナチス親衛隊)やゲシュタポのことなど知らなかったし、日記に出てくる在宅時に家宅侵入される息を呑む描写、食料の品質がだんだん悪化していくこと、常に息を殺すようにして生活することなどに対してぜんぜん想像力が働かず、ただ中学生ぐらいの普通の女の子が驚くべき表現力で戦争について考えさせる文章が「かっこいい」と思っていた程度だった。また、隠れ家の場所が、「プリンセンフラハト二六三」という番地(現在では展示スペース拡張等で267まである)であることをすぐに言えるだけで、誇れることでもないのに鼻高々に独りなっていたものだ。


西教会



西教会については『日記』でも記述がある

隠れ家に移り住んだ頃、アンネ本人は西教会の時鐘の音に平気だったが、彼女の父・母・姉は慣れなかった。


見学を終えたか、集合場所にきたところなのだろうか



プリンセン運河



入口に並ぶ前に



入場前の注意事項

「プリンセンフラハト二六三」にとうとう来てしまった。『アンネの日記』を読んだ頃に「一生のうち一度は行きたい場所、老年になって人生の総括のつもりで行ければいいなぁ」と思っていたところに、あれよあれよという間に着いてしまった。
実のところ、私のアムステルダムでの第一の目的は、国立ミュージアムにあるレンブラントの「夜警」を鑑賞することだった。「アンネ・フランクの家」に真っ先に行ったのは、比較的に遅い時間まで開館しているから観光客は「家」を後回しにするゆえに遅くいけばいくほど行列が長くなる、よって早めに行っておけ、といったような記述がガイドブックにあったからに過ぎない。その記述には納得がいった、それに日本での特別展覧会じゃあるまいし「夜警」で行列ができているとは思えない、ならば先に…というわけだ。
しかし、当初、二番目以降の目的地であったところが、現地で最も印象に残る一つのところになってしまう旅の妙を、ここで実感することになったのだ。

つづく

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13番のトラムが来た

訊ねたい場所の近くまで行く13番のトラムが来た。念のため運転手さんに英語で「アンネ・フランク・ハウスに行きますか?」と確認した。日本語のカタカナ発音のように訊ねたが通じた。





ピンクの丸い部分に乗車カードをタッチする

私は一日間有効の使い捨てカードWegwerp OV-chipkaartを買った。乗車のとき、下車のときに画像のピンクのところにタッチするのだが、下車のとき出口のピンクのところにカードをタッチしないとドアの手前の柵が開かない車両もあるので、しっかりとタッチする。


マグナ・プラザが見える

最初、王宮かと思った(笑)。


Westermarkt駅にて

車内で子どもを泣き止ませるためにちょっと話した人と同じ駅で降りた。「アンネ・フランクの家」は歩いてすぐのところだった。

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駅を出た途端「寒っ!」と思った

アヴィニョンはマルセイユから北北西のところにあるとはいえ、緯度でいえばモナコとあまり変わらないから昼間に31℃の土地だ。その翌日に最高気温14℃に満たないアムステルダムだから、「おバカさんですか、あなたは(笑)」と言われたことがある。でも感覚としては、湿度が低くカラッとしているぐらいの違いだけで、3月末に沖縄から北海道に行くぐらいの気温の差とあまり変わらないのではないだろうか。


聖ニコラス教会が見える



さっそく路面電車トラムが目に入る






トラムの乗り場や線路



空は澄んでいた



中央駅。ガイドブックによれば東京駅のモデルになったといわれているとか



海運で栄えたことを誇らしげに示してるかのようだ






GVB(市営交通案内所)

ここでトラム、バス、メトロの共通一日券を買った。

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ベルギーが近づくにつれ日の出が。(夏ならばとっくに明るい)



向こうでは車両でも落書きがあることが多い



田園地帯ではこういった木立と風車をよく見かける

ベルギーの主要駅やオランダのいくつかの都市の駅に停車するものの、パリからスタシオン・アムステルダム・セントラール(アムステルダム中央駅)までは3時間30分ぐらいで着く。


アムステルダム中央駅



タリスはそこまでじゃなかったが、欧米の列車の出入口は段差がきついものもある



大きい駅だ






オランダの中心的な駅とはいえ終着駅の機能はなさそうだ




階段を降りた途端トイレに行きたくなった。案内板のWCの文字をたどり、0.5ユーロで入れるトイレへ。男性用の方の入口の自動ドアが故障していたので、急きょ女性用出入口から入れるよう対処してあった。


駅前に向かう。

先日も書いたが、高速列車はいろいろメリットがある。人気の世界遺産モン・サン・ミッシェルに行く途上のレンヌへもパリからTGVで2~2時間30分ぐらいだそうだし、アヴィニョンへは2時間40分程、アムステルダムへは3時間30分弱で着いてしまうのだ。朝起きれるなら、きっと楽しい日帰り旅行ができるように思う。

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タリス(THALYS)

パリ北駅からベルギーやオランダまではタリスという高速特急で行ける。


利用者が多いからか、車両はたくさんある。



体のサイズの標準が大きいことを感じさせるシート



Wi-Fiも使えるのだ。



二等席でもなんとコンセントが使える!



座席の上の荷物入れもスーツケースが余裕で入る

検札に来た女性職員さんは35ユーロのチケットを見て、「トレビヤン!」と言ってくれた。実のところ、タリスのチケットについては購入時に姓と名を逆に入力したことに気づかぬまま購入してしまっていた。パスポート拝見とか言われたときのための説明の英語を頭の中でこねくり回していたが、職員さんはQRコードを読み取ったらさっさと次の客の検札に移っていかれた(笑)。

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TGV、ユーロスター、タリスの方へ

今から思うとなぜゆえにそんなことをしたのかと自分でも不思議なくらいだが、パリからアヴィニョンやニームに日帰りした翌日、オランダのアムステルダムに日帰りで行ったことがある。
パリからアムステルダムへは、ガール・デュ・ノール(パリ北駅)から高速列車タリス(THALYS)で行くのも一つの方法である。








昨日の反省を生かし、乗る列車のホームをチェック



日付刻印機












TGVのインフォメーション



タリスのインフォメーション






朝食は軽めのものにならざるを得なかった

大きな駅では「病気にかかってることを示す書類」みたいなものを見せて現金をせびってくるような人もいたが、そこはきっぱり断った。離れて行ったら即シャンとして歩いていくではないか。
それにしても、どの国の駅であろうが、駅の雰囲気というものにはいつも魅せられる。ヨーロッパの駅の多くは、基本場内アナウンスをしないし、列車の到着や発車を告げる合図やサイレンは最低限の音しか立てない。そのせいか、駅にいる人々の会話のざわつきかたが、落ち着いたものに感じられたりする。
そして都市の主要駅は終着駅であることが少なくなく、駅の構造自体が横に広くて大きい。旅というイメージにパリ北駅もぴったり当てはまる。

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ここ数回、交通費節約術の説教臭い話しばかり書いていたが、今回は他山の石としていただけるドジ話である。結論を先に書けば、インフォメーションでよく確認しろ、である。
世界遺産にポン・デュ・ガールという遺跡がある。そこへは、アヴィニョン・サントレやニームからバスで行けるが、ド田舎の場所ゆえバスは一日数本と、いかんせん便数(本数も)が少ない。
アヴィニョン・サントレのバスターミナルからA15番でポン・デュ・ガールのバス停"Rond Point Pont du Gard"に1.5ユーロ(実は運賃に関しても自分のドジがあったのがここでは触れない)で着き、遺跡を見学したまではよかった。
問題が発生したのは帰りであった。対面通行の道路ゆえバス停が上りの分が一つ、下りの分が一つと、向かい合って立っているのは珍しくないことだが、問題は二つのバス停が直径40m近くのラウンドアバウト(roundabout:円形交差点)を挟んで立っていることであった。おまけに両バス停ともに止まるバスの上り下りの時刻表が貼ってあったのだ。


赤■がバス停。こういう位置関係



ポン・デュ・ガールに到着した方のバス停



ラウンドアバウト(roundabout:円形交差点)。右端に小さく向かいのバス停が見える。



A15番、B21番、どちらも上り下りの時刻表が貼ってある…

アヴィニョン・サントレに帰るだけならば簡単だ。来るときにA15番が着いたバス停と異なるラウンドアバウトを挟んだ向かいのバス停でA15番を待てばいいだけのことだ。
しかし、私はニームに行くためB21番に乗らねばならないのだ。バス停には止まるバスの次の駅の表示がない! 要するに、ニーム行きB21番はどちらに止まるのだ?
パリの最高気温が15℃、ポン・デュ・ガールの気温は31℃、緯度の差で生じたおそろしいくらいの暑さの中で汗を拭きながら、私はどちらに目的のバスが来るのか分からず中間の位置で待ち、バスが見えた瞬間に駆け出そうと身構えてた。大雑把な南仏の地図からして、ニーム方面はこっちだからポン・デュ・ガールにA15番で着いた方かなぁと何の根拠も無い材料で勝手に予想し、そちらよりの日陰で待っていた。バス停の前ではカーステレオから音楽を大音量でかけた車が止まり、なかなか動き出そうとはせず、警戒心ゆえ半ば不安になった。


もう一つのバス停(ニーム行のB21番に、ここから乗った)

バスの到着時刻になった。しかし私の予想は外れ、遠いほうのバス停にB21番が高速でやって来るではないか! あらかじめ用意しておいたA5用紙サイズの紙に書いた「NIMES」の文字を頭上に掲げ、あわててバスに走り寄った。運転手さんは私の行動を察してくれて、バス停から少し過ぎたところで止まってくれ、にこやかにドアを開けてくれた。私が乗り込んだ後、運転手さんは何事も無かったかのように他の乗客と談笑しながら、ニームへの田舎道をすっ飛ばした。いろんな意味で汗が止まらんかったが、バスの中では楽しかった。

ぐだぐだと書いたが冒頭の結論、インフォメーションでよく確認しろ、の理由は上述の通りだ。インフォメーションというのはポン・デュ・ガールのインフォメーションや博物館でバスの時間その他について教えてくれるセクションのことである。
世界遺産とはいえ、いつもバス停に観光客がいるとは限らないのだ。それにポン・デュ・ガールのある場所は本当にド田舎で、昼のバスを一本逃すと夕方まで次はありません状態なのである。外国の旅で重要になるのは、結局のところ体力と注意力だと思っているが、この時はポン・デュ・ガールに着いた時点でB21番について分からないでいたのに、注意力を発揮せずインフォメーションで訊ね忘れたのだ。いい思い出だが、お粗末であったとも今も思っている。

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