山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

ビワ

2006-06-22 22:33:23 | 未分類過去
電車の中で、近くの横ならびの座席に座っていた中年男女の会話です。
「ねえ、見て見て、あの木すごいわよ。」
「ああ、ほんとだ」
「きれいねえ。あれなあに?」
「あれ?あれはビワだよ」
「ビワ?あの黄色いのいっぱい、ビワなの?」
「うん、ビワがたくさんなってるね」

「あんなにいっぱいなってるなんて、めずらしくない?」
「そうだね、鈴なりだなあ」
「ほんとうにすごいわ。あれ、食べられるのかしら?」
「あれは、・・・食べられないだろ。実が小さいからね」
「あら、そうなの?」
「うん、あれは全然手入れをしてないから、枝が茂りすぎて実が小さすぎる。」
「ああ、そうか。売ってるビワってもっと大きいわよね」
「普通は、もっと枝を落としてすっきりしてるだろ」
「そうねえ。」

「あんな大きなビワの木がある家って古い家なんでしょうね」
「うん、そうだろうね」
「最近の家で、ビワを植える家なんかないものね」
「そうだなあ」

女性はなんか天真爛漫風で、男性は落ち着いて物知り風でした。正直言うと、ビワは小さくても食べられるとは思いましたけどね。男性を信頼している関係っていいかもしれませんね。
こんな会話を交わすのは夫婦じゃないような気がしたのですが、途中の駅で連れ立って降りていく姿はご夫婦のようでした。
なんか、いい関係ですね。夫婦にしては新鮮すぎる!!!

私はビワをみてもあまり感動しないかも知れませんが、
うちの場合、
「見て、すごいいっぱいビワがなってるよ」
「・・・」
「ほら、あそこ見てみなよ」
「ふ~ん」
「ちょっと!ちゃんと見てるの?」
「ビワがなってんだろ?」
「そうだよ。すごいいっぱいなってるけど、あれはちょっとなりすぎかもね」
「・・・」
「でも、あんなになるなんてみごとだね。」
「・・・」
「今はいいけど、実が落ちたらかたづける大変だろうね」
「・・・


てな感じで、ぜんぜん会話になりませんね。

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共通点あり

2006-06-22 01:26:40 | 未分類過去
夫が私に向って、静香容疑者の類だと言うのです。
ふざけんな、ぜんぜん違うだろ
といいたいところですが、自分でそんな気はしたんですよ。
それは、家事をしないと言う点ですね。

しかし、あれほどじゃありませんよ。
一応はしています。
しかし、手の込んだことは全然しません。
夕飯は一品くらいしか作らないです。
それで、今夜は、茄子とピーマンとひき肉をレトルトのマーボーナスの素で炒めたものと納豆を食べさせたら、鈴香容疑者と同じにされてしまいました。

何年か前、日本語教師をしていたころは、正直ひどかったです。
徹夜で準備なんかしていたので、
毎朝コンビニに走ってはパンなどを買ってきていました。
おかげでそのころはすごいお得意さんでした。
パンについているシールを集めて、アライグマラスカルとか赤毛のアンとかフランダースの犬とかの絵皿を、いっぱい獲得しました。
上の子の高校のお弁当もパンやおにぎりをかってきたり、奥の手はコンビニ弁当とかお惣菜を買い、それを自宅の弁当箱に詰め替えるわけです。
手作り弁当のように見えます。

今、次女のお弁当はそんなことはせずちゃんと作っています。
しかし、冷凍食品のオンパレードですが、玉子焼きと茹で野菜くらいは作ります。

なんでかな?
昔から、家事に力を入れられない習性ですね。
なんか、家事というのは生活に付随した最低限しなくちゃならないものだとおもっているのです。
仕事するためにはとりあえずなんか食べなくちゃ腹が減るし、洗濯もしなくちゃ着る物がないから、それに間に合わせるためにするという、あくまでも脇役です。
1人暮らししていたときにそういう感覚が身についちゃったんだと思います。

そして、母もそうだったかな。
外に働きに行っているから、家事を楽しむとか家事に打ち込むってことができない生活で、インテリアを楽しんだり、料理の盛り付けを工夫したりするような心の余裕がなかったんだと思います。
家事を1つの仕事として真っ当にこなそうという、家事のプロ意識みたいなものは私の育った家にはありませんでした。
でも、母はA型なんで、きれい好きで、わたしよりずっとちゃんと家事をこなしています。

要するに私は怠け者で、そこが鈴香容疑者に似ているのです。
でも、鈴香容疑者の家はすごくきれいに片付いていましたね。

私は夫がいますが、それで、最低限の手料理をして暮らしています。
子どももそれほど好きじゃないです。
自分の子は育てましたが、どっちかというと子ども嫌いです。
いつまでも小さくかわいい子どもが好きなんてとんでもなくて、早く大きくなって一人前の大人になれと赤ん坊の頃から思っているのです。

こんな私がもし母子家庭だったらどうだったんだろうか?とも思います。
もっと心がすさんでしまって、疲れてしまって、子どもに何か作って上げなくちゃと思ってもついついカップラーメンでも食べさせてしまったかもしれません。
あやかちゃんは、お母さんの手料理はたべられなかったけど、買ったものは食べさせてもらっていたんじゃなかったでしょうか?
ろくなものも食べさせられず、寒い中外に出されていて、虐待に近い状態だったと言いますが、それは極端な憶測なんじゃないかと思います。
我が子はかわいかったと思いますよ。

そして、着せ替え人形のように七五三などはちゃんとやっていたとまた非難されています。
本人にとっては娘に対する罪滅ぼしのきもちだったんじゃないでしょうか。こどもにチャイナドレスをつ作ってやろうとしたのもそうです。でも、そういう気持ちは単発的で日常的に長続きはしなかったのでしょう。

あんな子ども嫌いな女がよく生んだもんです、などと冷たい目を向ける知人がいるようですが、生んだことと、曲がりなりにもそこまで育てていたことをほめてくれるひとはいないのでしょうか。彼女は何事に関してもよく評価されなかったようですね。

鈴香容疑者の精神分析をしている人が、彼女は自殺願望者だと言っていました。
少し前に、精神科に通っている中年男性で自分が自殺する代わりによその子どもを投げ落としてしまった人がいましたが、それにも共通する要素があるようです。
やはり、疲れてしまっていたんじゃないかと思います。

子どもにカップラーメンとレトルトカレーばかりを食べさせていた男やもめがいたらどうなのかな?と思いました。
その場合、世間は非難するでしょうか?
いえ、男親がそういうことをして1人で子どもを育てていたら同情されると思いますね。

私は今になって気付いたんですが、
子どものとき、ある意味、いじめられていたんだと思います。
おとなしく、スポーツが苦手な私を毛嫌いしていたガキ大将がいたんです。
みんなはその子に同調していました。
その子はスポーツが得意でした。
それで、私は、スポーツマンが嫌いなんです。
スポーツマンが私を毛嫌いしてると思うからです。
サッカー選手も好きじゃないんです。
小さい頃に限らず、スポーツの場で人から冷たくされることは多かったです。
それは高校の球技大会や会社の野球大会にまで及びました。

仮に人間の価値をスポーツ能力だけで決めると仮定したら、私は鈴香容疑者が卒業アルバムにかかれたように、多くの同級生から拒否され拒絶され最低の評価をされたんじゃないかと思います。だから、あの寄せ書きを見たときは他人事ではない様に感じ、涙があふれてきました。

私は道徳を守る人間です。だから、故郷の人々に嫌われることはなかったけれど、鈴香容疑者の事件を通して、変われない不完全な自分をより一層感じてしまいます。
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