自動車学校に通っていたときは、3日空けると勘が鈍ったり、運転の仕方を忘れたりするように感じ、非常に危機感を持ちました。
ところが、このごろそういう感覚が消えつつあるようで、そのことが怖いなあと思います。
そうやって、次第に運転の意識がなくなり、運転の習慣を捨て、運転というものを自分から無くしていくと、本当にペーパードライバーというものになってしまいます。
ちょっと前は、運転ができないという禁断症状が出るのではないかと思うほど、無性に運転がしたいと思ったのに、もう、運転しないほうがヒヤヒヤしなくていいや、などという楽な方向に進みかねません。
それは、以前もよく比較したことで、日本語教師の仕事とも似ています。授業に出るのは結構緊張なんですよ。いろいろ苦手なこともあります。新出項目の導入が苦手だとか、テンポよくドリル練習させるのが苦手とか・・・。苦手なところってのは、ついつい省きたくなっちゃったりするんですね。そうすると、てきめんに悪い結果が出ます。省いたり、ごまかしたり、手をぬいたところは、そのまま学生に理解できなかったり、身につかなかったりしてしまうんですよね。
それって、運転もそうで、幹線道路で進路変更するのに、後方や横をしっかり確認して手際よく車を移動させるなどというのが、いやだな、怖いななどと思い、なるべくそういう道通らないようにしようなんて避けてしまったりしたら、そういうのはどんどん苦手になってしまうでしょう。
そして、究極は、日本語教師の場合は、もう教師をやめちゃう。授業をやらないのが一番楽ですからね。授業ってのは緊張感があって、一種舞台に立つような気分もありました。教壇に立つっていうのは、ステージに立つような要素もあるんですね。それは、一種快感でもあります。学生から難しい質問が来たときも、適切に答えられたりして成功したときは満足ですよね。だから、常に乗り越える緊張感と、なるべく楽をしたいという甘えが同居していて、長期の休みが終わって久しぶりに教壇に立つときは、とても緊張するのでした。もし、そこで緊張しないなら、どうしようもない質の低いマンネリ化した授業をすることになるかもしれません。それでもやっていけるのかもしれませんが、どれだけ学生が迷惑を被るでしょう。
車の運転ってのも、自分にとっては、そういうところが多分にあります。それは、好きだけれど、自分の天性として、ぴったり合っているものではないから、苦労が大きいのです。
いや、やっぱり初心者だから難しいってのが多分にあるでしょうね。だからこそ、場数を踏まなきゃならないし、決して中断したり、長期間空白を作ったりしたらいけないし、気合をいれて取り組まなきゃと思います。楽なほうを選んだら、もう2度とおそろしくて運転が出来ない人間になりそうです。また、漫然と適当に走ったら、どれだけ周りに迷惑をかけるかわかりません。
私はもう、日本語を教える気合はないです。面倒くさいです。今の自分には、日本語を教えることはできません。
運転も、中断したら、それと同じになってしまうんでしょうね。
さて、前置きが長くなってしまいました。
そんな危機感をふと感じ、今日は幹線道路に沿って、歩道を自転車で走ってきました。
なんか、自動車好きの子どもが、車に乗っているふりをして遊んでいるみたいで、変ですね。
でも、大きな交差点を眺めて、自分が今あそこを走っていたらどうするのか?などとヒヤヒヤするだけでも、少しは運転感覚を呼びもどすことができるように思います。
ああ、怖い、走ってていきなりあんな交差点に入っちゃったらどうするかな、などとオロオロしてしまいました。
五叉路みたいな交差点は、一番右の道に右折しない場合は、最初の信号では直進レーンを進み、その直後にまた進路別のレーンを素早く選んで入らないといけないようでした。ほんの数メートルしかありません。
そして、またすぐ次の信号に従って進むのですが、すごく大きな交差点です。右折の場合、青だったらどこまで進むのかな?などと面食らってしまいそうです。地下にもぐっていく道や別の道と合流するための道などがあり、何がなんだかわかりません。こんなところ初めて走ったらどうなっちゃうんだろうと思います。
交差点を外から眺めているよりも、実際に車に乗っているほうが、かえってわかるものなのかな、とも思いました。
教習コースで、母校の教習車を2台見かけました。
私は、先輩なのか?と思いました。私は教習生より運転はうまいのでしょうか?
それとも経験のない卒業生の私よりも、現役生のほうがうまいのでしょうか?
自転車で走っていても、慣れない道は緊張しますね。
明日は車の運転をする予定です。
頑張らなくては。
ところが、このごろそういう感覚が消えつつあるようで、そのことが怖いなあと思います。
そうやって、次第に運転の意識がなくなり、運転の習慣を捨て、運転というものを自分から無くしていくと、本当にペーパードライバーというものになってしまいます。
ちょっと前は、運転ができないという禁断症状が出るのではないかと思うほど、無性に運転がしたいと思ったのに、もう、運転しないほうがヒヤヒヤしなくていいや、などという楽な方向に進みかねません。
それは、以前もよく比較したことで、日本語教師の仕事とも似ています。授業に出るのは結構緊張なんですよ。いろいろ苦手なこともあります。新出項目の導入が苦手だとか、テンポよくドリル練習させるのが苦手とか・・・。苦手なところってのは、ついつい省きたくなっちゃったりするんですね。そうすると、てきめんに悪い結果が出ます。省いたり、ごまかしたり、手をぬいたところは、そのまま学生に理解できなかったり、身につかなかったりしてしまうんですよね。
それって、運転もそうで、幹線道路で進路変更するのに、後方や横をしっかり確認して手際よく車を移動させるなどというのが、いやだな、怖いななどと思い、なるべくそういう道通らないようにしようなんて避けてしまったりしたら、そういうのはどんどん苦手になってしまうでしょう。
そして、究極は、日本語教師の場合は、もう教師をやめちゃう。授業をやらないのが一番楽ですからね。授業ってのは緊張感があって、一種舞台に立つような気分もありました。教壇に立つっていうのは、ステージに立つような要素もあるんですね。それは、一種快感でもあります。学生から難しい質問が来たときも、適切に答えられたりして成功したときは満足ですよね。だから、常に乗り越える緊張感と、なるべく楽をしたいという甘えが同居していて、長期の休みが終わって久しぶりに教壇に立つときは、とても緊張するのでした。もし、そこで緊張しないなら、どうしようもない質の低いマンネリ化した授業をすることになるかもしれません。それでもやっていけるのかもしれませんが、どれだけ学生が迷惑を被るでしょう。
車の運転ってのも、自分にとっては、そういうところが多分にあります。それは、好きだけれど、自分の天性として、ぴったり合っているものではないから、苦労が大きいのです。
いや、やっぱり初心者だから難しいってのが多分にあるでしょうね。だからこそ、場数を踏まなきゃならないし、決して中断したり、長期間空白を作ったりしたらいけないし、気合をいれて取り組まなきゃと思います。楽なほうを選んだら、もう2度とおそろしくて運転が出来ない人間になりそうです。また、漫然と適当に走ったら、どれだけ周りに迷惑をかけるかわかりません。
私はもう、日本語を教える気合はないです。面倒くさいです。今の自分には、日本語を教えることはできません。
運転も、中断したら、それと同じになってしまうんでしょうね。
さて、前置きが長くなってしまいました。
そんな危機感をふと感じ、今日は幹線道路に沿って、歩道を自転車で走ってきました。
なんか、自動車好きの子どもが、車に乗っているふりをして遊んでいるみたいで、変ですね。
でも、大きな交差点を眺めて、自分が今あそこを走っていたらどうするのか?などとヒヤヒヤするだけでも、少しは運転感覚を呼びもどすことができるように思います。
ああ、怖い、走ってていきなりあんな交差点に入っちゃったらどうするかな、などとオロオロしてしまいました。
五叉路みたいな交差点は、一番右の道に右折しない場合は、最初の信号では直進レーンを進み、その直後にまた進路別のレーンを素早く選んで入らないといけないようでした。ほんの数メートルしかありません。
そして、またすぐ次の信号に従って進むのですが、すごく大きな交差点です。右折の場合、青だったらどこまで進むのかな?などと面食らってしまいそうです。地下にもぐっていく道や別の道と合流するための道などがあり、何がなんだかわかりません。こんなところ初めて走ったらどうなっちゃうんだろうと思います。
交差点を外から眺めているよりも、実際に車に乗っているほうが、かえってわかるものなのかな、とも思いました。
教習コースで、母校の教習車を2台見かけました。
私は、先輩なのか?と思いました。私は教習生より運転はうまいのでしょうか?
それとも経験のない卒業生の私よりも、現役生のほうがうまいのでしょうか?
自転車で走っていても、慣れない道は緊張しますね。
明日は車の運転をする予定です。
頑張らなくては。