今、なぜ安部公房なのか、なんていうことを大上段から振りかざしたりはしない。ただ、テキストがおもしろかっただけ。そこに深い意味なんてないさ、という軽いノリがいい。もちろんそれだけの安易な企画ではないことは当然だ。60年代の前衛安部公房の難解な世界を今、この21世紀に甦らせることの意味はどこにあるのか。今の若い世代にこの戯曲がどうアピールするのか、とても興味深い。
トイガーデンの安武剛さんは、このテキストを使い、それがよくわからないままを自分のメソッドに翻訳して自由自在に見せようとする。彼は理屈で解釈を加えない。本能のまま、この劇世界を見せる。その結果、ある意味では安部公房の提示する世界を破壊し、そこに残ったものを見せてしまうのだ。それってなんだか凄い。安武さんのやり方が今までで一番上手く機能したのではないか。
ただ、今回はいつもほどにはめちゃくちゃはしない。共同制作ということもあって、自分を抑えているようだ。それがけっこう上手く機能し、ストーリラインを崩さないのがいい。野菜を使って、それを舞台上にばらまき、空間をゴミ溜めのようにしていく。美しい邸宅のはずが、徐々に汚されてゆき、気付くとここは廃墟のようになっている。それは彼らの内面がこの空間の中に表出していき、視覚化されたような印象を与える。もうすべてが収拾のつかない状態になってしまったところで、芝居は幕を閉じて行く。ここまではこの長い芝居の前半でしかないのだが、まるでここで完結したような印象を与える。70分という上演時間もほどよい。
10分の休憩の後、後半は始まる。ここからは伊藤拓さんの演出である。こちらは安武さんのような過剰な演出はない。とても抑えたタッチで引き締まったステージを見せる。だが、ラストでは安武さん以上の不快感を提示するのにだ。これには驚いた。登場人物がお互いにおにぎりをぶつけ合い、あたり一面に撒き散らす。食べ物を粗末にすることの不快がこのお話自体の孕む不快に繋がる。後半は80分。合計2時間30分に及ぶ大作である。
ウエー(奴隷)とニンゲンが逆転して行くという構図はとてもわかりやすく、そうすることで世界の秩序が崩壊していく。作品自体は不条理劇とはいえないくらいの単純な構造を持っており、それがこの長編の中で持続していく。簡単に収束していくのではなく、様々なアラベスクを形作り、それがストレートな図式の中に収斂していく。
伊藤さんは安武さんの演出した部分も含めてこの芝居全体を纏め上げる。だが、前半がトイ・ガーデンの芝居であったように伊藤演出による後半のみでも作品は成立する。そしてそれはFrance_panによる『どれい狩り』と言ってもいい。この芝居は別々の2本の芝居を見た気分にさせてくれる。2時間30分のそれぞれの完全版を2本見るのはちょっとしんどいが、こういう形で不完全な2本を見ることで、本来存在しなかった部分を想像することは可能だし、こういう形で1本の共同制作による作品を見た気分にもなれる。と、いうか気分なんかではなく、これはそういう作品なのだ。
先ほどの話を蒸し返すが、野菜や果物、そしてお米という食べ物を粗末に扱うことが不快だったのではない。そういう形で舞台上に散らばる有機物の残骸がおぞましかった。それを見せることで、この『どれい狩り』という作品の本質を鋭く抉り出して見せれたのならこの作品は傑作になったかもしれない。だがそこは表層的な不快さという次元にとどまる。この作品が生き物の本能の深淵に触れてくることで、観客の心に届く作品になったはずだが、後一押しだ足りない。それはサカイさんの美術にも言える。本来なら地下室にあるはずの檻を空中に配した野心的な空間設定なのだが、それが活かしきれない。まぁ、それはサカイさんの問題ではなく演出の問題か。
ただ、最近芝居を見ていて、なかなかこんなふうな思い切った芝居を見ることは少なくなっていた。それだけに彼らの試みはとても心地よかったのだ。きちんと自分たちの世界観を前面に打ち出す。その姿勢はとてもいい。
トイガーデンの安武剛さんは、このテキストを使い、それがよくわからないままを自分のメソッドに翻訳して自由自在に見せようとする。彼は理屈で解釈を加えない。本能のまま、この劇世界を見せる。その結果、ある意味では安部公房の提示する世界を破壊し、そこに残ったものを見せてしまうのだ。それってなんだか凄い。安武さんのやり方が今までで一番上手く機能したのではないか。
ただ、今回はいつもほどにはめちゃくちゃはしない。共同制作ということもあって、自分を抑えているようだ。それがけっこう上手く機能し、ストーリラインを崩さないのがいい。野菜を使って、それを舞台上にばらまき、空間をゴミ溜めのようにしていく。美しい邸宅のはずが、徐々に汚されてゆき、気付くとここは廃墟のようになっている。それは彼らの内面がこの空間の中に表出していき、視覚化されたような印象を与える。もうすべてが収拾のつかない状態になってしまったところで、芝居は幕を閉じて行く。ここまではこの長い芝居の前半でしかないのだが、まるでここで完結したような印象を与える。70分という上演時間もほどよい。
10分の休憩の後、後半は始まる。ここからは伊藤拓さんの演出である。こちらは安武さんのような過剰な演出はない。とても抑えたタッチで引き締まったステージを見せる。だが、ラストでは安武さん以上の不快感を提示するのにだ。これには驚いた。登場人物がお互いにおにぎりをぶつけ合い、あたり一面に撒き散らす。食べ物を粗末にすることの不快がこのお話自体の孕む不快に繋がる。後半は80分。合計2時間30分に及ぶ大作である。
ウエー(奴隷)とニンゲンが逆転して行くという構図はとてもわかりやすく、そうすることで世界の秩序が崩壊していく。作品自体は不条理劇とはいえないくらいの単純な構造を持っており、それがこの長編の中で持続していく。簡単に収束していくのではなく、様々なアラベスクを形作り、それがストレートな図式の中に収斂していく。
伊藤さんは安武さんの演出した部分も含めてこの芝居全体を纏め上げる。だが、前半がトイ・ガーデンの芝居であったように伊藤演出による後半のみでも作品は成立する。そしてそれはFrance_panによる『どれい狩り』と言ってもいい。この芝居は別々の2本の芝居を見た気分にさせてくれる。2時間30分のそれぞれの完全版を2本見るのはちょっとしんどいが、こういう形で不完全な2本を見ることで、本来存在しなかった部分を想像することは可能だし、こういう形で1本の共同制作による作品を見た気分にもなれる。と、いうか気分なんかではなく、これはそういう作品なのだ。
先ほどの話を蒸し返すが、野菜や果物、そしてお米という食べ物を粗末に扱うことが不快だったのではない。そういう形で舞台上に散らばる有機物の残骸がおぞましかった。それを見せることで、この『どれい狩り』という作品の本質を鋭く抉り出して見せれたのならこの作品は傑作になったかもしれない。だがそこは表層的な不快さという次元にとどまる。この作品が生き物の本能の深淵に触れてくることで、観客の心に届く作品になったはずだが、後一押しだ足りない。それはサカイさんの美術にも言える。本来なら地下室にあるはずの檻を空中に配した野心的な空間設定なのだが、それが活かしきれない。まぁ、それはサカイさんの問題ではなく演出の問題か。
ただ、最近芝居を見ていて、なかなかこんなふうな思い切った芝居を見ることは少なくなっていた。それだけに彼らの試みはとても心地よかったのだ。きちんと自分たちの世界観を前面に打ち出す。その姿勢はとてもいい。