4人の新人のための4話からなるオムニバス。それぞれが2人芝居で、ベテランと新人がタッグを組んで挑む。なんだか、微笑ましい企画ではないか。昔ながらの徒弟制度がそこにはあり、ベテランの胸を借りて若い役者たちが公演を通して成長する。この作品を経て、彼らが本公演で、どういう立ち位置を確保するのか、それも楽しみだ。
台本は新撰組のエース、南陽子。演出は座長である南田吉信。完璧な布陣だ。もともとは、作、演出南陽子でスタートしたが、諸般の事情で座長の登板となったようだ。だが、それが結果的には吉と出たのではないか。演出のテンポがよく、全体のバランスもよくなった。南さんが自分で演出したら、どうしても思い入れが勝り、芝居に必要以上のタメが出来すぎる。その結果、作品も必要以上に重くなる。今回の南田さんの演出は、さらっとしていて、流れるように見せていき、悪くない。思い入れの過多は微妙な問題だ。題材との距離の取り方次第で作品の成否が決まる。
今回、全体がロンド形式になる。最後になると、もとに戻るはず。最初の下村さん演じる男が何から逃げていたのかが、ラストで明らかになる、というのがパターンのはず。しかし、そうはしなかった。あの中途半端なエピソードを宙に浮かせたまま、終わる。微妙にリンクして、完璧に収まる、というわかりやすさは踏まないのだ。それって確信犯か。そこも微妙。でも、この収まりの悪さは嫌いではない。
留守中に侵入してきたやばそうな男(下村直裕)と仕事を終えて帰ってきたその部屋の住人(日高良基)。以下も同じようなパターンでのふたりのやりとりを見せる。日高が好きなおかみさん(阿矢)が次の話を引き継ぐ。最後は日高と阿亜が駆け落ちした後の旅館に残された主人(南田)が若い女の子を連れ込む話まで。
4人の新人たちが初々しい。それを受ける4人のベテラン(というか、いつものメンバー)が、しっかりと彼らを支える。だが、いずれも「VSもの」になっている。両者の駆け引き(バトル)で見せていくのがいい。20分程度の長さが心地よい。それ以上長くなれば説明になり、結果的には間延びするばかりだ。だから、こういうふうに明確なストーリーになる以前のところで止めてある。そこもいい。
今ある「囲い」(それはたぶん自分が作ったものだ)から出る。それが彼らにとって、いいことなのか、わるいことなのかはわからない。その曖昧さがこの作品の魅力なのだろう。
台本は新撰組のエース、南陽子。演出は座長である南田吉信。完璧な布陣だ。もともとは、作、演出南陽子でスタートしたが、諸般の事情で座長の登板となったようだ。だが、それが結果的には吉と出たのではないか。演出のテンポがよく、全体のバランスもよくなった。南さんが自分で演出したら、どうしても思い入れが勝り、芝居に必要以上のタメが出来すぎる。その結果、作品も必要以上に重くなる。今回の南田さんの演出は、さらっとしていて、流れるように見せていき、悪くない。思い入れの過多は微妙な問題だ。題材との距離の取り方次第で作品の成否が決まる。
今回、全体がロンド形式になる。最後になると、もとに戻るはず。最初の下村さん演じる男が何から逃げていたのかが、ラストで明らかになる、というのがパターンのはず。しかし、そうはしなかった。あの中途半端なエピソードを宙に浮かせたまま、終わる。微妙にリンクして、完璧に収まる、というわかりやすさは踏まないのだ。それって確信犯か。そこも微妙。でも、この収まりの悪さは嫌いではない。
留守中に侵入してきたやばそうな男(下村直裕)と仕事を終えて帰ってきたその部屋の住人(日高良基)。以下も同じようなパターンでのふたりのやりとりを見せる。日高が好きなおかみさん(阿矢)が次の話を引き継ぐ。最後は日高と阿亜が駆け落ちした後の旅館に残された主人(南田)が若い女の子を連れ込む話まで。
4人の新人たちが初々しい。それを受ける4人のベテラン(というか、いつものメンバー)が、しっかりと彼らを支える。だが、いずれも「VSもの」になっている。両者の駆け引き(バトル)で見せていくのがいい。20分程度の長さが心地よい。それ以上長くなれば説明になり、結果的には間延びするばかりだ。だから、こういうふうに明確なストーリーになる以前のところで止めてある。そこもいい。
今ある「囲い」(それはたぶん自分が作ったものだ)から出る。それが彼らにとって、いいことなのか、わるいことなのかはわからない。その曖昧さがこの作品の魅力なのだろう。