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この寂しさを真摯に受け止めて人は生きていかなくてはならないのか。お互いにもう少し歩み寄って(夫婦なんだから)しっかり支えあい生きていけたならいいのに、なんて思うのは、無責任な他人だから言えることで、当事者である彼らはあんなふうにしか生きれないのだろう、か。
結婚して、3年目。お互いを大事に思っているから踏み込まない。きちんと距離を取っている。たとえ夫婦であろうとも、ひとりひとりは別々の人間だから、相手にすべてをぶつけていいわけではない。お互いの寂しさを相手に丸投げしても詮無いことだ。それぞれが自分の聖域を持ち夫婦であろうとも、そこに足を踏み入れることは出来ない。
彼(大森南朋)は、常にヘッドフォンで耳を塞ぎ、外部を遮断している。部屋の鍵を閉め、ひとりTVゲームをする。お互い家の中にいながら、携帯で連絡を取り合う。そのくせ、灯りの消えた家に帰るのが、怖いから、自分が帰るときには、妻に先に戻っていてもらいたい。我儘な夫なのではない。彼はそんなふうにしか生きられないのだ。とても弱い男だ。
彼女(中谷美紀)は、テディベア作家で、自宅で手作りの人形を作ることを仕事にしている。自分の仕事に対して、妥協はしない。辛抱強く、仕事に集中していると、外部が見えなくなる。それって、当たり前のことだろう。とても強い女だ。
とても弱い男である彼女の夫とは違う。だが、だからこそ、彼女は彼に支えてもらいたい。自分の本当の弱さを支えて欲しいと願っている。そうなのだ。強いフリでしかない。この彼女の強さは、彼女の脆さでしかない。だが、そんなこと、彼には分からない。優しさは、時には残酷さになる。彼らが作り上げてきた「思いやり」の構図は、2人の関係を損なうことになる。
ずっと前からわかっていたはずだ。なのに、怖いからそこに触れないでいた。そして、妻は外に愛人を作る。そして、同じように夫も外に恋人を作る。2人は別々のやり方で、自分たち夫婦の満たされないものを埋め合わせる。そして平然と幸福な日常を生きていく。偽りの笑顔で、取り繕って、生きる。
『ストロベリー・ショート・ケイクス』の矢崎仁司監督は、江國香織の原作の持つガラス細工のような繊細さと脆さ、危うさを映画として再現する。あの張り詰めたような空気がこの映画には充満している。息苦しい。生きていることの寂しさ、孤独が、ここに極まる。
結婚して、3年目。お互いを大事に思っているから踏み込まない。きちんと距離を取っている。たとえ夫婦であろうとも、ひとりひとりは別々の人間だから、相手にすべてをぶつけていいわけではない。お互いの寂しさを相手に丸投げしても詮無いことだ。それぞれが自分の聖域を持ち夫婦であろうとも、そこに足を踏み入れることは出来ない。
彼(大森南朋)は、常にヘッドフォンで耳を塞ぎ、外部を遮断している。部屋の鍵を閉め、ひとりTVゲームをする。お互い家の中にいながら、携帯で連絡を取り合う。そのくせ、灯りの消えた家に帰るのが、怖いから、自分が帰るときには、妻に先に戻っていてもらいたい。我儘な夫なのではない。彼はそんなふうにしか生きられないのだ。とても弱い男だ。
彼女(中谷美紀)は、テディベア作家で、自宅で手作りの人形を作ることを仕事にしている。自分の仕事に対して、妥協はしない。辛抱強く、仕事に集中していると、外部が見えなくなる。それって、当たり前のことだろう。とても強い女だ。
とても弱い男である彼女の夫とは違う。だが、だからこそ、彼女は彼に支えてもらいたい。自分の本当の弱さを支えて欲しいと願っている。そうなのだ。強いフリでしかない。この彼女の強さは、彼女の脆さでしかない。だが、そんなこと、彼には分からない。優しさは、時には残酷さになる。彼らが作り上げてきた「思いやり」の構図は、2人の関係を損なうことになる。
ずっと前からわかっていたはずだ。なのに、怖いからそこに触れないでいた。そして、妻は外に愛人を作る。そして、同じように夫も外に恋人を作る。2人は別々のやり方で、自分たち夫婦の満たされないものを埋め合わせる。そして平然と幸福な日常を生きていく。偽りの笑顔で、取り繕って、生きる。
『ストロベリー・ショート・ケイクス』の矢崎仁司監督は、江國香織の原作の持つガラス細工のような繊細さと脆さ、危うさを映画として再現する。あの張り詰めたような空気がこの映画には充満している。息苦しい。生きていることの寂しさ、孤独が、ここに極まる。