『金魚妻』なんていうエセ・ポルノを見たから、少し久しぶりに日活ロマンポルノのことを思い出してみた。僕のロマンポルノベストワン作品は斎藤水丸監督の『母娘監禁・牝』だ。学生時代から就職してしばらく、ロマンポルノがなくなるまでの日々にかなりの作品を見たはずだ。根岸吉太郎や金子修介のデビュー作もここから生まれた。廣木隆一の映画もここから見始めた。学生時代は新世界日活でアルバイトもしていた。なんだか懐かしい。
数年前、日活ロマンポルノ・リブートとして新作が作られたときには、うれしくて全部見た。だが、気鋭の(今の日本を代表する)監督たちが競ったにもかかわらず、どれもつまらなかった。唯一及第点を付けられたのは白石和彌の『牝猫たち』くらいか。塩田明彦(『雨に濡れた女』)ですら満足のいく作品にはならなかった。その中でも最悪は園子温『アンチ・ポルノ』で、彼は(たまたま、だろうけど)あの作品以降、明らかに減速した。他の作品でも異彩を放つことはない。どうしてあんなことになったのか、よくわからないけど、まぁ、ロマンポルノ自体も10本に1本くらいしかまともな映画はなかったのだから、仕方ないともいえる。それくらいにセックスを中心に据えて娯楽映画としてすぐれた作品を作ることは難しいということなのか。
と、そんなことを考えていたら、アマゾンでこの映画を見つけた。『雨にゆれる女』ってタイトルはなんだかロマンポルノ的ではないか。6年前の作品である。音楽家の半野喜弘が監督に挑んだ作品だ。彼はホウ・シャオシェンやジャ・ジャンクーの数々の映画で音楽を手掛けできたが、これが初めての脚本、監督、音楽、編集を一手に引き受けた映画監督デビュー作である。劇場公開時にも少し気になっていた映画である。そこで、さっそく見てみた。
シャープな映像と音楽。何も起きないのに緊張感が持続する。そんなドキドキするような雰囲気に包まれる刺激的な作品だ。だけど、お話が始まると「あれっ?」っと思うことになる。残念ながらあまりにイメージ重視で台本がいただけないのだ。お話が穴だらけでついていけない。83分と短めの映画は主人公2人の因果関係に説得力を持たせることができなかった。偶然の多用や、お話自体の説得力のなさ。これがロマンポルノなら、凄いものを見た、と興奮できたはずだが、一般映画として見たら、杜撰な出来だと言うしかない。と、そう書いたとき、僕(たち)は客観的にロマンポルノ映画を評価してきたのだろうか、という疑問が沸き起こる。ある種の色眼鏡で過大評価していたのではないか、と不安になる。
もちろん、凄い映画はたくさんあった。だけど、ほとんどがあり得ないほど、くだらない作品で、その中に紛れていたから、必要以上に過大評価した作品だってきっとあっただろう、なんて思う。ロマンポルノではないけど、瀬々敬久監督のピンク映画時代の最高傑作『雷魚』はあの年のすべての映画の中でベストワンにしたし、その後も何度となく見たけど色褪せることはない。きっと今見ても大丈夫な歴史に残る作品だ。田中登の『実録・阿部定』は大島渚の『愛のコリーダ』と並べても遜色はない。でも、「あの頃」見たロマンポルノの傑作はどこか色眼鏡で見ていたかのかもしれないな、と「今」は思う。
そんなこんなを感じながら、この映画を見た。この映画にはエロはない。だけど、題材的には明らかにロマンポルノだし、ヒロインの大野いとはこれがポルノ映画だったら、もっと素晴らしい演技を見せられたはずだ。(別に僕は彼女に「脱いで欲しい」と言っているのではない)この映画のダメなところは、いろんなことが中途半端なところにある。台本もそうだし、ふたりの関係がセックスシーンをちゃんと描かないから嘘くさくなったことも大きく影響している。
こっとポルノ映画だからできることって、確かにあるのだと思う。でも、今の時代、ポルノ映画がちゃんと作られなくなったのだな、と改めて思う。この映画の失敗やロマンポルノ・リブートの失敗がそのことを象徴する。さらに、そこにネットフリックスの『金魚妻』の失敗も重なる。難しい。