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映画・演劇のレビュー

夏川草介『始まりの木』

2022-02-26 17:29:23 | その他

夏川草介が医者の世界を離れた作品を手掛けるのは初めてではないか。今回の主人公は民俗学者だ。大学の准教授と院生のふたりが旅をする。凸凹コンビの掛け合いの面白さでお話を引っ張っていく。飄々とした主人公はいつもの夏川草介の小説でおなじみのタイプだ。第1話のタイトルがいきなり『寄り道』とは、笑わせてくれる。本題から逸れていくように見せかけて実はそこにこそ大事なものがある、と気づかせてくれる。民俗学なんて、今の時代流行らない。というか、昔からそうだろう。でも、そこには大切なものがしっかりと隠されている。だから、もしかしたら、一番大事かもしれない、ということをこの小説はしっかりと描いている。3話目で信州に行く。(しかも病院の話になるのもご愛敬)やっぱりね、と思う。(さすがに『神様のカルテ』の栗原一止が出てきたりはしないけど)しかも、ここがお話の根幹をなす。そして3話のタイトルはこの長編のタイトルである『始まりの木』だ。

この国は亡びるね、と言ったのは漱石だ。というか、『三四郎』の中で広田先生に言わせている。あの小説は単なる青春小説でも、恋愛小説でもない。そんなことは自明のことだが、大学生だったころの僕はあの恋愛青春小説に魅了され、(40年も前に話だが)大学の卒論だって『三四郎』で書いてしまった。この漱石マニアの医者である小説家の書いた作品はさらりとしたタッチで師匠と弟子の問答の中で、そこに至ろうとしている。それは漱石への挑戦ではなく共感だ。最終章で(第5話『灯火』)少しあからさまに書きすぎたけど、彼の想いはしっかりと届く。医学から民俗学へ。もちろん、そこまで大仰な話ではない。だが、彼が医者を主人公にしなかったという事実はそれくらいに大きなことだ。

シリアスではなく、コミカルだけど、軽いコメディではない。それどころか、重いお話もちゃんとこの軽やかさの中に馴染ませてある。医者の話ではないのに、安心して読める。終盤さすがに自分のテリトリーである病院がどんどん出てきて、大学内の問題を描くはずが、それも曖昧にしたまま、終わる。だいたい1話完結の「旅もの」だったはずが、そこも曖昧になる。だけど、それでいい。描きたかったことをしっかりと描き切る。これは医者ではない「小説家」としての夏川草介の本格デビュー作になった。


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