習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『バベル』

2007-05-02 06:28:15 | 映画
 一発の銃弾が、三大陸、四つの言語を使う人々の運命と呼応して、そこから壮大な物語が動き出す。『アモーレス・ペロス』で衝撃のデビューを果たしたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの長編第3作。

 方法論は前2作と全く同じなので驚くことはない。それよりもこの人はこのやり方でしか映画が撮れないのか、と思ってしまうくらいだ。もちろんそれは彼を否定しているのではない。作家として確立したスタイルを持つことは悪い事ではない。但しこのやり方は決して彼独自の語り口でもない。いくつものドラマを交錯させて1本の映画を作るのは故ロバート・アルトマンが得意とするやり方だし、ポール・マイケル・アンダーソンが傑作『マグノリア』でやっている。

 しかし、彼らとアレハンドロの大きな違いは、こんなにも遠く離れた人々のお互いには直接は交わりあうことのないドラマを、1本に繋いでみせていくという部分にある。それを全く無理なくやり遂げてしまう。モロッコ‐日本‐アメリカからメキシコへ、3つの大きなドラマは時間軸も微妙にずらしながら描かれていく。特に見事なのは、前半のドラマが大きく動いていく直前に、モロッコにいるブラット・ピットの父親からの電話を受ける乳母と息子のシーンを見せ、ラストで再びブラット・ピットの側から同じ場面を繰り返し描いていく部分だ。1本の電話が繋ぐ2つの場所、それぞれのドラマ。映画はこの電話から始まり、この電話で終わる。

 さらには、このドラマの外側に役所広司が、ハンティングのナビゲートをしてくれたガイドにプレゼントしたライフル銃が巡り巡って事件の発端となる、というドラマが用意される。ここから全てが始まり、その事実を警察から彼が聞く、というシーンで映画全体が幕を閉じる。すべてのドラマは、彼が偶然善意からモロッコ人に銃を与えたことに起因する。このなんとも皮肉な巡り合わせ。さらには、彼のドラマも家に置いていたライフルで妻が自殺したところから始まっている。

 少年がなんとなく引いてしまった引き金により、すべての人たちの運命が崩れていく。しかし、この映画はそんな悲惨な物語の果てに一筋の光明を描こうとする。世界はこんなにも暗く、人々の心はささくれ立っているにもかかわらず、我々はそれでも生きていこうとする。。それだけの力を持っている。

 映画のラストシーン。自宅である高層マンションのベランダに立ち役所広司は、娘の手を握り締める。ブラッド・ピットは子どもたちのところに帰っていく。彼らは、自分たちの守るべきもの、愛するもののところに戻っていく。「世界はまだ変えることができる」という確かなメッセージが力強く語られている。

 この映画にはどこにも主人公はいない。モロッコ部分の主人公であるはずのブラット・ピットがこの映画でゴールデングローブ賞の助演男優賞にノミネートされ、メキシコ部分の主人公アドリアナ・バラッザがアカデミー賞の助演女優賞にノミネートされた事実。さらには映画全体のキーパーソン、であり日本部分の主人公である菊池凛子もまた、その2つの映画賞で同じように助演女優賞にノミネートされているのだ。この事実をどう受け止めたならいいのかは明白である。この映画には主人公は1人としていないのだ。それをすべての人が認めている。ここにもこの映画の本質が見える。

この痛ましいドラマを通してそれでも「届け心」という見事なコピーに象徴されるメッセージをしっかり観客に伝えきったアレハンドロに拍手を贈りたい。そして、ここに描かれるすべてのドラマの核心をになう言葉を失った(これは言葉が伝わらないことを根底にしたドラマだ)ことで、傷つき、それでも懸命に生きようとする少女を演じた菊池凛子にも。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 唐組『行商人ネモ』 | トップ | 『ラブソングが出来るまで』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。