先生が死んだ。交通事故だった。まだ32歳。彼女たちの高校の演劇部顧問だった。芝居の舞台は、通夜の受付場所で、そこで教え子たちが交わす言葉が描かれる。
みんなあの時の演劇部の同期だった。とても楽しかった。だから卒業後、先生も一緒になって劇団を立ち上げた。でも、先生が抜けて解散した。それはある事件が引き金になった。ミステリ仕立てのお芝居になっている。先生の死の原因を突き止めるまでが描かれる。先生の妻を演じる妄想プロデュースのあまのあきこが、たった2シーンの登場で、作品をさらっていく。それを見事だ、とは言わさない。残念だ、と思う。もちろんそれはあまのさんが悪いのではない。それどころが彼女はこのおいしい役を見事にこなした。だが、そうすると、この芝居に大切な部分が損なわれる。
それはこの芝居のスタンスの問題なのだ。エンタメとして捉えたなら、これは実におしゃれでいいのだが、そういうタイプの作品ではない。もっと泥臭い芝居にならなくてはいけない。だから殺人事件である必要はない。というか、そうであってはならない。あまのさんが、というか、先生の妻がこんなにも前面に出てはならないのだ。
不在の先生という存在は、狂言回しでいい。だが、彼女たちの確執はもっと日常に即したリアルさが欲しい。そのためにもこれは殺人であってはならない。お話を妻の狂気に収めてはならないと思うのだ。ここからは20代後半にさしかかった女たち(25歳)の中にある様々な問題が浮上してくる。その中心には、たまたま先生の存在があり、劇団があるだけ、そういうスタンスでよい。
通夜に集まったかつての仲間たちが、お互いの本音をぶちまけていく。田舎の旧家に嫁いだ女が、遅れてやってくる。そこからそれまでは秘めていたみんなの中にある隠したい想いが爆発する。結婚、夢、現実、仕事。そんな彼女たちを取り巻く問題は、誰もが感じる問題で、だからこの芝居が描くことには普遍性がある。そのぶんステレオタイプでもある。実はそこでのバランスのとり方が難しい。
5人の女たちが、この思いもしない非日常の出来事を通して、それぞれ感じていたことが明るみになる。やがてそれらがひとつになった時、彼女たちのこれからの生き方が見えてくるはずなのだ。それは彼女たちに嫉妬した妻も含めて、喪ったものの大きさに還元される。彼女たちは、「先生」に何を見ていたのか。その時、今が通夜であることが大きく前面に出る。そういう芝居が見たかった。
みんなあの時の演劇部の同期だった。とても楽しかった。だから卒業後、先生も一緒になって劇団を立ち上げた。でも、先生が抜けて解散した。それはある事件が引き金になった。ミステリ仕立てのお芝居になっている。先生の死の原因を突き止めるまでが描かれる。先生の妻を演じる妄想プロデュースのあまのあきこが、たった2シーンの登場で、作品をさらっていく。それを見事だ、とは言わさない。残念だ、と思う。もちろんそれはあまのさんが悪いのではない。それどころが彼女はこのおいしい役を見事にこなした。だが、そうすると、この芝居に大切な部分が損なわれる。
それはこの芝居のスタンスの問題なのだ。エンタメとして捉えたなら、これは実におしゃれでいいのだが、そういうタイプの作品ではない。もっと泥臭い芝居にならなくてはいけない。だから殺人事件である必要はない。というか、そうであってはならない。あまのさんが、というか、先生の妻がこんなにも前面に出てはならないのだ。
不在の先生という存在は、狂言回しでいい。だが、彼女たちの確執はもっと日常に即したリアルさが欲しい。そのためにもこれは殺人であってはならない。お話を妻の狂気に収めてはならないと思うのだ。ここからは20代後半にさしかかった女たち(25歳)の中にある様々な問題が浮上してくる。その中心には、たまたま先生の存在があり、劇団があるだけ、そういうスタンスでよい。
通夜に集まったかつての仲間たちが、お互いの本音をぶちまけていく。田舎の旧家に嫁いだ女が、遅れてやってくる。そこからそれまでは秘めていたみんなの中にある隠したい想いが爆発する。結婚、夢、現実、仕事。そんな彼女たちを取り巻く問題は、誰もが感じる問題で、だからこの芝居が描くことには普遍性がある。そのぶんステレオタイプでもある。実はそこでのバランスのとり方が難しい。
5人の女たちが、この思いもしない非日常の出来事を通して、それぞれ感じていたことが明るみになる。やがてそれらがひとつになった時、彼女たちのこれからの生き方が見えてくるはずなのだ。それは彼女たちに嫉妬した妻も含めて、喪ったものの大きさに還元される。彼女たちは、「先生」に何を見ていたのか。その時、今が通夜であることが大きく前面に出る。そういう芝居が見たかった。