行定勲監督の新作は上海を舞台にした日中合作映画。キャストとして日本からは三浦春馬ひとりが参加した。先にも書いたが全編上海のみ。基本的にはそこから1歩も出ない。(モーリシャスのシーンもあるが、)主人公は三浦だが登場人物も基本的には4人。(そのうち2人は二役だから役者は3人)もちろん観光映画ではない。
ここで暮らす日本人(もちろん三浦)が主人公だ。彼は老人の時計店で壊れた時計の修理をしている。そして、彼がふたりの女(リュ・シーシー)と出会う話である。彼女たちは姉妹で、まるで区別がつかない。一卵性双生児。彼はたまたまプールで姉と出会う。彼女の妹の誕生日プレゼントを買うのに、付き合わされる。彼女の妹はモデルで、街には彼女の巨大なポスターが貼られている。妹の恋人は映画プロデューサーの青年実業家。なんだか、よくできた映画のような設定。もちろん、わざとだ。この映画はリアルからはほど遠い世界のお話。夢の時間を描く。サスペンス劇。
最初は淡々としたお話。この4人の関係が描かれる。だが、いきなりモーリシャスでの旅行中に起きた事故で、双子のうちのひとりが死ぬ。ここからお話は急展開。生き残ったのは妹、なのだが、彼女の恋人は、「今、自分のところにいる女は姉の方だ、」という。彼は三浦にその真偽を問う。
とてもおしゃれでスタイリッシュな映画なのだ。心理劇にもなっている。だが、真相はどうだ、という結論部分にはあまり意味はない。そういうことを見せたいのではない。だから、明確にはならない。しない。
ふたりの女に翻弄される異国から来た青年、というスタンスだけでいい。だから、ここには彼が日本人である必要性もない。彼女が中国人で、あるということも、ここが上海だから、という意味で必要な条件になるだけ。都市の迷路が、彼女たちの心の迷路と重なり、そこに迷い込んだエトランジェが、外側から、彼女たち2人のドラマを見守る。だから、彼は当事者ではない。ただの傍観者でしかないのだ。一応、姉の恋人のようなスタンスは取るけど、彼は彼女の内面にまでは踏み込まないし、踏み込めない。
ふたりの女はお互いを疎ましく思う。だから、死は事故だが、ある種の殺人に近い。これが入れ替わりの話であることは、想像できるだろう。だが、それは彼女たちにとって、役割分担でしかない。いつのまにか、自分というものを失っていた、のかもしれない。冒頭の幼いころのワンエピソードにすべてを集約させる。赤い服と黒い服を交換する。いつもの儀式だ。だが、そうすることで、お互いがお互いに大切なものを失うのだ。自分にはないもの(もうひとつの自分)を手に入れるはずが、自分自身を失うことになる。
ふたりがひとりになったことで生じた喪失感。それがこの映画のテーマなのだが、その先には踏み込まない。主人公の三浦が、タイトルの「5分前」に踏み出すラストが新しい始まりを暗示しないのが惜しい。映画は、彼が傍観者の立ち位置を棄てて、その時、止まっていた時間が動き出すところまでを描いてもいい。だが、あのラストからはそれは見えない。
ここで暮らす日本人(もちろん三浦)が主人公だ。彼は老人の時計店で壊れた時計の修理をしている。そして、彼がふたりの女(リュ・シーシー)と出会う話である。彼女たちは姉妹で、まるで区別がつかない。一卵性双生児。彼はたまたまプールで姉と出会う。彼女の妹の誕生日プレゼントを買うのに、付き合わされる。彼女の妹はモデルで、街には彼女の巨大なポスターが貼られている。妹の恋人は映画プロデューサーの青年実業家。なんだか、よくできた映画のような設定。もちろん、わざとだ。この映画はリアルからはほど遠い世界のお話。夢の時間を描く。サスペンス劇。
最初は淡々としたお話。この4人の関係が描かれる。だが、いきなりモーリシャスでの旅行中に起きた事故で、双子のうちのひとりが死ぬ。ここからお話は急展開。生き残ったのは妹、なのだが、彼女の恋人は、「今、自分のところにいる女は姉の方だ、」という。彼は三浦にその真偽を問う。
とてもおしゃれでスタイリッシュな映画なのだ。心理劇にもなっている。だが、真相はどうだ、という結論部分にはあまり意味はない。そういうことを見せたいのではない。だから、明確にはならない。しない。
ふたりの女に翻弄される異国から来た青年、というスタンスだけでいい。だから、ここには彼が日本人である必要性もない。彼女が中国人で、あるということも、ここが上海だから、という意味で必要な条件になるだけ。都市の迷路が、彼女たちの心の迷路と重なり、そこに迷い込んだエトランジェが、外側から、彼女たち2人のドラマを見守る。だから、彼は当事者ではない。ただの傍観者でしかないのだ。一応、姉の恋人のようなスタンスは取るけど、彼は彼女の内面にまでは踏み込まないし、踏み込めない。
ふたりの女はお互いを疎ましく思う。だから、死は事故だが、ある種の殺人に近い。これが入れ替わりの話であることは、想像できるだろう。だが、それは彼女たちにとって、役割分担でしかない。いつのまにか、自分というものを失っていた、のかもしれない。冒頭の幼いころのワンエピソードにすべてを集約させる。赤い服と黒い服を交換する。いつもの儀式だ。だが、そうすることで、お互いがお互いに大切なものを失うのだ。自分にはないもの(もうひとつの自分)を手に入れるはずが、自分自身を失うことになる。
ふたりがひとりになったことで生じた喪失感。それがこの映画のテーマなのだが、その先には踏み込まない。主人公の三浦が、タイトルの「5分前」に踏み出すラストが新しい始まりを暗示しないのが惜しい。映画は、彼が傍観者の立ち位置を棄てて、その時、止まっていた時間が動き出すところまでを描いてもいい。だが、あのラストからはそれは見えない。