実はもう下巻の120ページまで読み進めている。主人公の航平はマカオを離れ、一時の日本に戻ることになる。
沢木さんによる本格長編小説である。前作『血の味』や短編集『あなたがいる場所』とは違う。上下巻900ページに及ぶ大長編なのだが、問題はそこではない。この作品が勝負事を描いていることだ。マカオのカジノで、バカラを極める男の話で、彼がそれまで、写真家を生業にしていたことや、その前にはサーフィンをしていたことも関係してくる。サーフィンとバカラの共通点は「波」だ。波に乗れるか、否か。劉さんが彼に尋ねる。「波は乗るものなのか?」と。サーフィンの波は「滑り落ちる」。だが、劉さんは言う。バカラの波は「攀じ登る」と。
お話はここから急展開していくはずだ。この膨大で、シンプル過ぎる小説がたどりつく場所へ。だが、それはまだ、今の話ではない。今は、ここまでの、600ページに描かれたことを振り返ろう。
沢木さんが自分をさらけ出すようにして、この作品に挑むのは、それがノンフィクションではなく、小説だからだ。『深夜特急』で、マカオでバカラに興じるさまを描いたのは、自分の若かりし日の体験で、それは彼のスタートでもあった。スポーツを題材にした様々なノンフィクション作品を通して彼が勝負と生き方にこだわったのは周知の事実だ。カシアス内藤を描いた初期の傑作『一瞬の夏』に代表される数々の作品の目指したものは明白であろう。でも、いくら書いてもわからない。わからないことばかりが、増殖していく。100人のアスリートには100通りの答えがある。だが、それはあくまでも彼らの導きだした答えだ。では、沢木さん自身が得た答えはどこにある? それがこの小説なのではないか。
サーフィン、写真、バカラ。この3つを取り上げたのは偶然ではない。ノンフィクション、エッセイ、小説。その3つを取り上げたのも、そうだ。そこには必定がある。それでなくてはならない。もちろん、サーフィンはボクシングに変換してもいいかもしれない。だが、そうすると、それは沢木さんの真実ではなくなる。ボクシングはあまりに近い。そしてリアルすぎるのだ。
これら2つの3つは、この小説を書く上で確実にリンクする。その危ういバランスの上で、この作品は書きすすめられる。
伊津航平(何処へ)が、13歳でサーフィンに出会い、オアフ島のノースショアで命を失いかけて得たもの。臆病というキーワードをめぐる考察。写真家として彼が醒めて目で見たもの。ヌード写真というジャンルは必ずしも彼が望んだものではない。だが、それもまた必定。それでなくてはならなかった。女の裸を通して、見えてきたもの。それが、パリのカフェでの定点観測の写真とどう繋がるのか。彼のたった2度だけの個展。それを見た明美は「もう一度、写真を撮ってください」という。
バカラを極めるなんてことは不可能だろう。だが、彼はその行きつく先を見極めたい。勝負は半々。勝つか負けるか。必勝法なんてない。偶然が支配する。そこに絶対なんてない。のるかそるかの一発勝負はバカラにおいては負けを意味する。わかっていても、やってしまう。人間の弱さか。
この作品を読みながら、終始ドキドキしている。沢木さんが仕掛けてきた大勝負を僕も見極めたい。エンタメ小説のスタイルを取りながら(だから、実におもしろい!)その底に流れるのは、沢木さんの本気だ。自分のすべてを賭けてまで、挑む大勝負なのである。さらけ出す。同時に見極める。そこには余裕なんかない。全身全霊を傾けて、この一冊に挑む。だから、一瞬も目が離せない。だから、僕も今は他のことは手に付かない。ただ、この本を読んでいる。