こういう映画が生まれてきたことに感動を禁じ得ない。アメリカ映画なのに、ほぼ全編ポルトガル語である。ブラジルを舞台にした映画だから、そうなる。でも、ここで大事なのは、ここがブラジルだ、ということではない。これは近未来のアメリカであっても構わない。だが、これはSFではない。現実の今、この世界で起きたことだ。起きていることなのだ。
だが、それをリアリズムで描くのではない。ファンタジーすれすれで描こうとする。スラムで生きる3人の子供たちが、たまたま手にした財布を通して、とんでもない出来事に巻き込まれていく。だが、彼らは負けない。大人たちを相手にして、一歩もひるむことなく立ち向かっていく、彼らの鼻を明かす。快哉を叫びたくなる。ありえない、というのではなく、やるじゃないか、と言いたい。こんなガキたちに翻弄される大人たちのバカさ加減には笑いが止まらない。
だが、現実はきっとそう単純なことではない。それどころか、危険すぎる。でも、それって、ドキドキする。何度となく、恐怖のどん底に叩き落とされる。だが、彼らはそれをちゃんと切り抜けていく。だから、おもしろいのだ。ちゃんとエンタメ映画になっている。これがただの社会派映画なら、きっと楽しめない。反対に「これってうそでしょ、」と思ってしまう。でも、この軽快なノリで突っ走ってくれるから、このお話を信じようと思えられる。
ゴミの山を漁る少年たち。彼らはそうすることを生業にしている。そこにある現実は重くこの映画を根底から支える。だが、それがやがてありえないようなアクションとファンタジーへと収斂されていく。そこにあるのは、確固とした強い意志だ。絶対に負けない。正義を貫いてやる、という。
リアルな生活描写に支えられ、(ドキュメンタリーのようだ)そこで暮らす少年たちの輝きはいっそう際立つ。スラムで(最低の環境のもと)暮らす彼らの鬱屈した心情を、ここまでのびのびと描きだすなんて奇跡だ。一見、何だかアート系の感動もののヒューマン映画のように見せかけて、そうしゃないのも可笑しい。
スティブン・ダルトリー監督の今回の挑戦は、このなんだかよくわからない映画をただのエンタメではなく、不思議なリアリズムに貫かれたアクション映画にしてしまうことだ。ジャンルを超越した味わいの映画になった。しかも、爽快。
だが、それをリアリズムで描くのではない。ファンタジーすれすれで描こうとする。スラムで生きる3人の子供たちが、たまたま手にした財布を通して、とんでもない出来事に巻き込まれていく。だが、彼らは負けない。大人たちを相手にして、一歩もひるむことなく立ち向かっていく、彼らの鼻を明かす。快哉を叫びたくなる。ありえない、というのではなく、やるじゃないか、と言いたい。こんなガキたちに翻弄される大人たちのバカさ加減には笑いが止まらない。
だが、現実はきっとそう単純なことではない。それどころか、危険すぎる。でも、それって、ドキドキする。何度となく、恐怖のどん底に叩き落とされる。だが、彼らはそれをちゃんと切り抜けていく。だから、おもしろいのだ。ちゃんとエンタメ映画になっている。これがただの社会派映画なら、きっと楽しめない。反対に「これってうそでしょ、」と思ってしまう。でも、この軽快なノリで突っ走ってくれるから、このお話を信じようと思えられる。
ゴミの山を漁る少年たち。彼らはそうすることを生業にしている。そこにある現実は重くこの映画を根底から支える。だが、それがやがてありえないようなアクションとファンタジーへと収斂されていく。そこにあるのは、確固とした強い意志だ。絶対に負けない。正義を貫いてやる、という。
リアルな生活描写に支えられ、(ドキュメンタリーのようだ)そこで暮らす少年たちの輝きはいっそう際立つ。スラムで(最低の環境のもと)暮らす彼らの鬱屈した心情を、ここまでのびのびと描きだすなんて奇跡だ。一見、何だかアート系の感動もののヒューマン映画のように見せかけて、そうしゃないのも可笑しい。
スティブン・ダルトリー監督の今回の挑戦は、このなんだかよくわからない映画をただのエンタメではなく、不思議なリアリズムに貫かれたアクション映画にしてしまうことだ。ジャンルを超越した味わいの映画になった。しかも、爽快。