
3話からなるオムニバスだ。「北村想が深津篤史に贈った短編戯曲」の上演というのがきっかけになった時点でこの作品の方向性が決まったのだろう。演出を依頼された空ノ驛舎はこの『human lost』という作品を核に据えて、深津氏追悼作品としてこの短編集を上演する。
冒頭の中村賢司作品『朝顔』はその方向性を明確にした。あまりにストレートすぎて、胸に痛い。これは深津さんのことにしか、見えない。最初にこれを持ってきたのは、空ノさんの覚悟ゆえ、である。さりげなく、死というものを描くようにも見えるけど、僕にはムリだった。残念だが、歪んだ目で見てしまう。泣けてくる。もっと素直に見てもいいのに、そうはならなかった。
それだけに、そのあとの高橋恵作品(『海底の動物園』)の軽やかさが嬉しかった。2本目まで、ストレートにやられたら、少し耐えられない。悲しみとどう向き合うのか。それを「失恋もの」として、見せるのは、気分が楽だ。高橋さん自身をモデルにしたような劇作家を主人公にしたのもいい。ここにも死者の目があるけど、そこもストレートで、ちゃんとこの連作の気分を伝える。
3つ目の北村想作品がいちばん軽い。重いことを、軽く描くのが、太宰の姿勢で、そこを踏まえた北村想版『人間失格』は、橋本健司の軽妙な切実さと、向き合う三田村啓示のいつものポーカーフェースが絶妙で作品全体を単なる追悼にはしなかった。
空ノさんは、とてもストレートで誠実にこの作品を見せる。それだけに、北村さんの作品はもっと軽やかにつくってもよかったはずだし、そうも出来たのに、作品全体のトーンに合わせて幾分重いトーンで見せた。そして、それもよかった。
赤と黒のシンプルな舞台美術は明らかに血と闇、生と死を表し、これが死をめぐる作品であることを雄弁に語る。もうここにはいない存在の大きさを静かな会話劇として届ける。風景や気配という深津作品の重要なファクターも踏襲する。聞こえるはずのない猫の声、屋上から遠くに見える工事のクレーンがキリンに見えること。ここにいる幻の男が、不在の彼を感じさせる。ここにいるけど、いない。とても象徴的な作品ばかりだ。3つの戯曲は全くアプローチは違うけど、しっかり同じ方向をむいている。ひとつの強い意志のもと、この作品をとても個人的なものとして、見せる。しかし、それはある種の普遍へと到達する。
一番大切なものを失った痛みと、それぞれがどう向き合い、乗り越えていくのかという問題だ。誰もが心当たりのあるそんな痛みへと作品が昇華していくから、作品はプライベートなものとして閉じることはない。誰もが痛みを抱えて生きている。死を断絶としてとらえるのではなく、死者はいつもそこにいること。死は生のなかにある。