ピーター・ウェーバーは先日『終戦のエンペラー』を監督した人なのだが、彼の旧作でスカーレット・ヨハンソン、コリンファース主演の映画がこれだ。フェルメールと彼がモデルにした少女のドラマ。ここまでよく似させたものだ、とため息がでるほど、全編フェルメールの絵画の世界。ヨハンソンはフェルメールのために生まれてきたのではないか、と思えるほど。まぁ、生きた時代が違うから、フェルメールは彼女ことを知る由もないけど。
映画自体はとても丁寧に作られているけど、だから、どうした、という感じ。ピーター・ウェーバーはディテールを描きこむのがうまいけど、ドラマを語る力がない。だから、『終戦のエンペラー』もあれだけやったのに、物足りないし、あんなにしっかりとした話があるのに、『ハンニバル』も、消化不良だった。彼は丁寧な書き込みはできるけど、それをどう構成して、どこに向けてドラマを転がしていくかというストーリーテラーとしての才能に欠けるのだ。
フェルメールという男が何を思い、何を考えて生きていたのかが、まるで見えてこない。しかも、運命に翻弄される少女は彼のモデルとなることで、どう生きようと思ったか、そこもわからない。すべてはフェルメールの絵画の中に隠されるとでもいうのか。じゃぁ、映画を作る意味ないし。それがどんなに稚拙なものであろうとも、ちゃんと答えが欲しい。映画はドラマだ。お話を通してどこに行きつくのか、それが知りたいから、観客は貪欲にその先を、さらなる先をと求める。そして、行き着いた先で、確かな何かに出会う。そのために映画を見続けるのだから。なのに、彼の映画はそこをはぐらかす。だから、僕はイライラするのだ。この10年前の映画を見ながら、まだ、新人だった10代のスカーレット・ヨハンソンの秘密の魅力に触れただけでは、納得しない。何度も言うが、秘密の中身が知りたいから映画を見るのだ。出来るものなら、ピーターはフェルメールを超えろ! それくらいの心意気でしか映画は作られてはならない。気取ってる場合ではない。