2021年の最新台湾映画。コロナ禍を正面から扱う。2020年夏から21年にかけてがお話の背景となる。というか、背景ではなく前面に押し出される。あの頃でなくては成り立たない映画をこのタイミングで作るなんて大胆としか言いようがない。昨年日本でもコロナ禍の人々の営みを前面に押し出した映画が作られた。その代表作は石井裕也監督の『茜色に焼かれる』であろうが、この台湾映画はあの映画のさらに上を行く大胆さだ。当たり前の日常が損なわれたとき、何が起こるのか。それをたった二人の家族を通して描く。そういう意味では『茜色に焼かれる』に似ているかもしれない。
コロナをきっかけにしてまず、娘が、そして母親が壊れていく話。そこからの再生の物語。タイトルの『瀑布』という言葉がラストで効いてくる。実際のある出来事がクライマックスに設定されるのだが、日常を脅かすものは当然、コロナだけではない。『茜色に焼かれる』なんて冒頭でオダギリ・ジョー演じる父親が交通事故で死んでいる。そして、この映画のラストでは娘が突然の事故に巻きこまれる。そこに象徴されるものがこの映画の一番のポイントとなる。我々の日々の幸せはとても危ういバランスの上で成り立つ。
ささやかな日々は思いもしない小さな出来事で壊れていく。最初は娘の反抗だった。母親との息の詰まるような関係がきっかけ。そしてクラスから陽性者が出て自宅待機になったこと。濃厚接触の疑いのある娘だけではなく、母親も職場から自宅待機を要請される。母親が何時から病んでいたのかは明確にはならない。きっと本人もわからないくらいにささやかなところから始まっていたのだろう。コロナのせいで業績が悪化して給料を10パーセントから20パーセントカットするという通達がくる。それは彼女だけではない。だが、彼女はそんな理不尽なことは許せないと上司に訴えかける。あの辺から実は病気は始まっていた。
映画は後半、娘がなんとかして母親を、そして自分たちの暮らしを守ろうとする姿が描かれる。一瞬は3年前に母と離婚した父親に頼ろうとした、だけど、すぐに諦める。父は優しい。母は今でも父が戻ってくると信じている。心を病んでしまい、弱くなった彼女はその想いを糧にして生きようとする。娘はそんな母親をなんとかして立ち直らせようとする。でも、まだ高校3年生で、子供だから、何もできない。自分が子供であることが、もどかしい。こんなふうにして母と娘の関係が反転し、やがてふたりで現実に立ち向かっていく姿が描かれる。
重くて暗い映画だ。不穏な空気が全編を覆う。ざわざわする。何が次に起こるのか、怖い。最後の最後まで緊張が持続する。ささやかな救いが確かにラストで提示されるけど、それも偶然でしかない。監督は『停車』『ひとつの太陽』のチョン・モンホン。素晴らしく、勇気のある映画だ。