3本続けて不思議な映画を見た。何がしたいのやらよくわからない映画だ。一言、「つまらない」と切り捨ててもいい。でも、それにしてもあまりに潔くわがままな作り方を貫きすぎていて、快感でもある。なんなんだ、これは、という思いばかり。
1本目がこの『ムーンライト・シャドウ』だ。マレーシア出身のレイモンド・ヨウという人が監督した日本映画だ。吉本ばななの初期短編の映画化である。彼女のデビュー作であり代表作でもある『キッチン』の中に同時収録されている。昔のシングルレコードのB面にあたるような小説だ。タイトルだってまさにそんな感じ。日の当たった『キッチン』のおまけのような位置づけの小説。だけど、この2作品はふたつでセットだ。喪失という共通のテーマを光と影で彩る。もちろん影の部分がこちらだ。
出版から30年の歳月を経て、ひっそりと映画化されたこの作品は実にわがままな作品だ。説明は一切しない。ただ目の前の出来事を不思議なことも含めてそのままに綴っただけ。これでは映画の体を為さない。無邪気すぎる。主人公(小松菜奈)は恋人を亡くす。恋人の弟の彼女も死ぬ。同時に二人は事故で死んだのだ。幸せだった時間とその後の孤独。わかりやすすぎる展開なのだけど、それをわかりにくく描いている。月影現象という不思議な出来事がラストで描かれるけど、死者との一瞬だけの再会が感動のクライマックスにはならない。
篠田正浩監督の64年作品『乾いた花』も同じ。いったいこれはなんなんだ、と言うしかない。石原慎太郎原作の短編小説の映画化作品で、篠田の代表作の1作でもある(はず、の作品)。だけど、なんだか言いたいことが僕にはまるで伝わらない。何がしたかったのだろうか、と首をひねる。出所したばかりの主人公のやくざ(池部良)は女(加賀まりこ)と賭場で出会う。男はこの場にそぐわないこの若い女に心惹かれるのだが、ふたりの関係は深まらない。女は賭けをする快感にどっぷり浸かる。男はただそれを冷静に見守る。映画は淡々とそんなふたりを見守るだけ。やがて彼女が薬に手を出して、死んだことを知る。希望の感じられない時代(東京オリンピックが開催される直前、日本が経済復興を成し遂げて高度成長時代に突入する)に、何も信じることができず死と向き合う男女の物語だ。だが、それがどこに行きつくのかは明記されない。
3本目は2011年作品。名古屋在住の一尾直樹監督作品『心中天使』。自主映画のような作品だけどキャストは豪華。まだブレイクする前の尾野真千子が主演。別々の場所で暮らす全く関わり合いのない3人の男女が主人公。ピアニストを目指す女性と、退屈な毎日を送る会社員。母に再婚を聞かされた女子中学生。彼らの抱える憂鬱、毎日のスケッチが並行して綴られていく。ラストまで見て唖然とする。何がしたかったのか、何が起きたのか、それすらわからない不条理劇になる、しかも、意味がわからない。それまでこれは何なのかと真面目に見ていた自分がバカにされたような気分になった。目が点になる。取り付く島もない。ふたりの男女は心中したのか? 女は少女となり生まれ変わったんか? えっ、そんな話なの? 理解に苦しむ。お話にはまるで整合性はない。ただ驚くだけ。それが最後まで淡々と綴られる。
独りよがりの映画は観客にこびない。というか、観客を置き去りにしても平気だ。でも、そんな映画を作ってどうするんだろうか。そんなのは公開せずに自分一人で楽しめばいい。そんな気にすらなる。
3本連続でこんな(不思議というか、とんでもないというか、わけのわからない)映画を見て、自分の頭が悪いだけなのか、それとも作り手が自由気ままに勝手してるだけなのか、なんだかどうしようもなくわけのわからない気分になった。おもしろかったのならそれでいいのだが、戸惑うばかりでつまらなかったわけでもないけど、さすがに面白いとは言い難い。自分で勝手に説明をつけることはできないわけではないけど、それは空しい。だって、そんなわけではないから。作り手の想いが伝わらないから、決めつけられない。自分がこれらの映画に乗れなかっただけなのかもしれないけど、さすがの3本連続すると凹む。