
三池崇史監督最新作。もちろん、この後もどんどん新作が続々公開される。相変わらず怒濤の勢いだ。年に何本映画を撮る気なのか。もちろん、彼はやれる限りやる気だ。(たぶん)というか、そうやっているからこんなことになる。しかも、手抜きなしだ。今回もただのホラー映画ではない。もちろん、ただのホラーをさせても、彼ならどこまででもやる。
ここまでで、もう3回も「もちろん」を使った。それくらいに三池崇史は、いつも同じなのだ。その徹底ぶりには、頭が下がる。あり得ないことだ。
市川海老蔵の企画で、『四谷怪談』をバックステージものとして、描く。でも、全体のバランスはきわどい。ここまでやっても大丈夫なのか、というラインにまで迫る。劇中劇の『四谷怪談』をとことん見せる。ここまでしたなら、もう劇中劇ではないのではないか、というほどだ。重要なエピソ-ドは網羅している。そこに本題であるはずの男女のお話が絡んできて、このふたつが一つになる時、映画は幕を閉じる。
悪い男の話。可哀想な女の話。そんな単純な構造をとことん見せると、なんだかそんな単純なことではなくなる。その恋愛は、異常なものになる。
でも、これでいいのか、と言われると、いいわけないやん、と答えるしかない。これでは『四谷怪談』を通して何を描きたかったのか、わからない。今まで、『四谷怪談』はたくさんの傑作を生み出してきた。その先にこの作品はあるはずだった。だが、ここには『四谷怪談』である必要性がない。素材にしたという域を出ない。にもかかわらずここまで踏まえる。
だから、最初にも言ったが、バランスが悪いのだ。柴崎コウが怖い。お岩を演じた時もそうだが、有名女優である主人公のシーンが凄い。どちらも何も言わない女だ。だが、優しい岩と、激しい女の対比が凄い。両者がその内の秘めたものを男に向けて放出させる。海老蔵演じる売れない役者(もちろん、伊衛門を演じる)は、役の上でも、日常ででも、堂々とそんな彼女を受け止める。彼ら2人のバトルが全編を彩る。デス・マッチだ。
この映画の怖さはそんな彼らの戦いにある。もちろん直接的な殴り合いではないのに、どんなアクション映画よりも激しいアクションをそこに見せる。凄い緊張が持続する。94分という短い上映時間は観客の耐え得る限界だろう。
だが、その先には何があるのか。茫洋としたまま、終わる。ラストはいきなり投げ出された気分だ。ここにあるのは憎悪と暴力だ。愛はない。お金によって、見失うもの。自分を信じてくれない男をまだ追い、プライドを失う。そんな女の怨念を静かに描くばかりだ。
ここまでで、もう3回も「もちろん」を使った。それくらいに三池崇史は、いつも同じなのだ。その徹底ぶりには、頭が下がる。あり得ないことだ。
市川海老蔵の企画で、『四谷怪談』をバックステージものとして、描く。でも、全体のバランスはきわどい。ここまでやっても大丈夫なのか、というラインにまで迫る。劇中劇の『四谷怪談』をとことん見せる。ここまでしたなら、もう劇中劇ではないのではないか、というほどだ。重要なエピソ-ドは網羅している。そこに本題であるはずの男女のお話が絡んできて、このふたつが一つになる時、映画は幕を閉じる。
悪い男の話。可哀想な女の話。そんな単純な構造をとことん見せると、なんだかそんな単純なことではなくなる。その恋愛は、異常なものになる。
でも、これでいいのか、と言われると、いいわけないやん、と答えるしかない。これでは『四谷怪談』を通して何を描きたかったのか、わからない。今まで、『四谷怪談』はたくさんの傑作を生み出してきた。その先にこの作品はあるはずだった。だが、ここには『四谷怪談』である必要性がない。素材にしたという域を出ない。にもかかわらずここまで踏まえる。
だから、最初にも言ったが、バランスが悪いのだ。柴崎コウが怖い。お岩を演じた時もそうだが、有名女優である主人公のシーンが凄い。どちらも何も言わない女だ。だが、優しい岩と、激しい女の対比が凄い。両者がその内の秘めたものを男に向けて放出させる。海老蔵演じる売れない役者(もちろん、伊衛門を演じる)は、役の上でも、日常ででも、堂々とそんな彼女を受け止める。彼ら2人のバトルが全編を彩る。デス・マッチだ。
この映画の怖さはそんな彼らの戦いにある。もちろん直接的な殴り合いではないのに、どんなアクション映画よりも激しいアクションをそこに見せる。凄い緊張が持続する。94分という短い上映時間は観客の耐え得る限界だろう。
だが、その先には何があるのか。茫洋としたまま、終わる。ラストはいきなり投げ出された気分だ。ここにあるのは憎悪と暴力だ。愛はない。お金によって、見失うもの。自分を信じてくれない男をまだ追い、プライドを失う。そんな女の怨念を静かに描くばかりだ。