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ひとりの女の子の生きる日々を静かにみつめていくだけの映画。最初、見ながら、「これは岩井俊二の『四月物語』じゃないか」、と思った。だけど、あの映画のそっけなさ、作為性はここにはない。いや、これはこれでこんなにも作為的な映画なのだ。なのに、なぜかそれでも自然体に見える。それってなんだ?
3年間ずっと恋人の死をひきずって生きてきたまだ20代後半になったばかりの女性。映画はそんな彼女の春から夏にかけての時間を追っていく。そこにはドラマチックなことなんか何もない。でも、仕事がなくなったり、(バイト先の蕎麦屋が閉店することになる)再び教職に就かなかと誘われて迷ったり、お店(蕎麦屋ね)の常連さんに告白されたり、それなりに何かはある。だけど、それは彼女の人生に大きな影響を与えるわけではない。それどころか、そんなことすら何もなかったか模様に思えるさりげなさ。
そんな彼女の(喪に服す時間から解放される直前の半年間ほどの)時間は、ずっとやわらかな陽射しに包まれている。彼女も(僕たち観客も)ずっと夢を見ていたのではないか、とすら思わせる。この映画自体が夢のようなのだ。だけど、それは心地よい夢というわけではない。静かに時は流れていく。恋人だった男の死から立ち直れないまま失意に日々を過ごす彼女の時間。それはなんだか(タイトル通り)長い夢に思える。
説明は一切なし。ただただ彼女の日常をスケッチしていくだけ。丁寧に毎日のなにげない時間を写し取っていく。彼女は自分の気持ちを言葉にしたりはしない。だけど、彼女が少しずつ、ものすごくゆっくりだけど、今の自分をのりこえていこうとしていることが、その姿から伝わってくる。同じように失意のなかにある僕まで少しだけ元気になれる、気がする。そんな映画だ。