沢尻エリカ主演の衝撃の大作映画。写真家である蜷川実花監督の『さくらん』に続く新作になる。このスキャンダラスな素材を敢えて沢尻主演で作るというとても攻撃的で挑発的な挑戦。こういう映画を、今の若い女の子たちがどう受け止めるのか、気になるところだ。
落ち目の芸能人を裸にしてそれで売るなんていう三文映画って昔はたくさんあった。にっかつロマンポルノなんて、それでどれだけ稼いだことか。でも、今時そんな映画は誰も作らない。この映画の沢尻エリカも芸能界から干されて、復帰を目指して、しかたなくこういう映画に挑んだ、というわけではない。その証拠に、劇場を埋めた観客は、エロおやじではなく、若い女の子たちだ。きれいになりたい、という想いがどこまで狂気に人を追いこむのかを描く映画だ。でも、そんなことより、これはまず沢尻エリカである。
この映画はまるで沢尻のための映画である。彼女の持つイメージから発想されたようなストーリーで、リリコは沢尻の分身のように見える。蜷川監督も、キャスティングで、敢えてそういう部分は狙ったのではないか。イメージから発想し、そこをどんどん増幅し、どこまでも突き詰めていく。全身整形女なんていう役を受け入れて、わがままの権化のような女として演じる。まるでドキュメンタリーのようにこの女を自分にひきつけて演じる沢尻は、凄いとしか、言いようがない。まるで憑かれたように魔性の女リリコを自分のものにする。彼女は沢尻本人にしか見えない。いとも簡単にセルフイメージで出ずっぱりのヒロインを演じた彼女のオレサマぶりを2時間見つめるだけで映画は終わる。これは彼女のための彼女による彼女の映画である。ほかに誰も口を挟む余地はない。
ストーリーに対してどうのこうの言う気もない。原作のコミック自身も衝撃的な内容のはずなのだが、吹っ飛んでしまう。これはもうただひたすらにエリカ様の世界だ。オールスターキャストなのに、みんな彼女に奉仕するだけで誰も目立とうとしない。本来なら沢尻を蹴落とす存在のはずの水原希子も、影が薄い。先日見たアルモドバルの『私が、生きる肌』も同じように全身整形の話で、あれも凄い漫画世界だったが、こちらはあの映画程、荒唐無稽ではなく、かなりリアルだ。芸能界を舞台にして、名声を得ることの意味と、虚しさが描かれる。でも、そんなことどうでもいい。ただひたすら、これはまず、「ザ・沢尻映画」だ。不滅の大スター沢尻、おそるべし。
落ち目の芸能人を裸にしてそれで売るなんていう三文映画って昔はたくさんあった。にっかつロマンポルノなんて、それでどれだけ稼いだことか。でも、今時そんな映画は誰も作らない。この映画の沢尻エリカも芸能界から干されて、復帰を目指して、しかたなくこういう映画に挑んだ、というわけではない。その証拠に、劇場を埋めた観客は、エロおやじではなく、若い女の子たちだ。きれいになりたい、という想いがどこまで狂気に人を追いこむのかを描く映画だ。でも、そんなことより、これはまず沢尻エリカである。
この映画はまるで沢尻のための映画である。彼女の持つイメージから発想されたようなストーリーで、リリコは沢尻の分身のように見える。蜷川監督も、キャスティングで、敢えてそういう部分は狙ったのではないか。イメージから発想し、そこをどんどん増幅し、どこまでも突き詰めていく。全身整形女なんていう役を受け入れて、わがままの権化のような女として演じる。まるでドキュメンタリーのようにこの女を自分にひきつけて演じる沢尻は、凄いとしか、言いようがない。まるで憑かれたように魔性の女リリコを自分のものにする。彼女は沢尻本人にしか見えない。いとも簡単にセルフイメージで出ずっぱりのヒロインを演じた彼女のオレサマぶりを2時間見つめるだけで映画は終わる。これは彼女のための彼女による彼女の映画である。ほかに誰も口を挟む余地はない。
ストーリーに対してどうのこうの言う気もない。原作のコミック自身も衝撃的な内容のはずなのだが、吹っ飛んでしまう。これはもうただひたすらにエリカ様の世界だ。オールスターキャストなのに、みんな彼女に奉仕するだけで誰も目立とうとしない。本来なら沢尻を蹴落とす存在のはずの水原希子も、影が薄い。先日見たアルモドバルの『私が、生きる肌』も同じように全身整形の話で、あれも凄い漫画世界だったが、こちらはあの映画程、荒唐無稽ではなく、かなりリアルだ。芸能界を舞台にして、名声を得ることの意味と、虚しさが描かれる。でも、そんなことどうでもいい。ただひたすら、これはまず、「ザ・沢尻映画」だ。不滅の大スター沢尻、おそるべし。