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映画・演劇のレビュー

『海辺の映画館』

2020-08-07 21:35:29 | 映画

 

大林宣彦監督の遺作となった作品である。末期がんと闘いながら『花筐』を完成させた後、故郷である尾道に戻り、最期の映画作りを始めた。それがこの作品だ。自由自在の極地に至る、と言えば聞こえがいいか、でも、ここまですると、やり過ぎではないか、とも思う。あまりの強烈さに、ついて行けない。これはないわ、とも思う。映画の矩とでもいうものを逸脱している。大林さんだから、いいかぁ、と思うけど、ふつうこれはないだろ、と思う。

 

『HOUSE』を見た時の驚きとは違う。『この空の花』の時とも,違う。彼のキャリアの中での2大エポックとでも言うべきそれら作品と今回の作品との違いは、やり過ぎ、という一点ではないか。最期だからすべての想いを込めた、ということだろうけど、その熱い想いが映画としてのバランスを欠いた。そんなこと些細なことではないか、という意見もわかる。だいたい『HOUSE』だって『この空の花』だってやり過ぎの映画という意味では同じだ。だけど、今回は先の2作品の時とは「何か」が違う。3時間の溢れんばかりの思いの丈は、今までのセンチメンタルな世界観とは違い、なんだか見ていて苦しい。戦争についての想いも、わかる。大林さんの今回のアプローチもそれが何なのか、わかる(気がする)。でも、それが映画としての完成度とか、好き嫌いとは別のもので、なんだかしっくりこないのだ。強迫観念に駆られて作ったみたいな感じがする。なんだか僕の知っている大林さんじゃない。こんなに息せき切って焦らなくてもいいんじゃないの、と思う。

 

尾道の海辺にある小さな映画館の閉館プログラム。時代の波に流され消えていく映画館。その思い出。記憶の中にある映画の数々。それは『ニューシネマパラダイス』のような感傷でもいい。ささやかな記憶を巡る物語が、時代を遡ると、戦争の頃に至る。そんな映画でよかったはず。でも、そうはしない。映画のあらゆる要素をぶちまけて、おもちゃ箱をひっくり返したような映画にする。戦争に至るまで,それは何と幕末から始まる。そのことがどうこうというのではない。オールナイトで上映される戦争映画の世界に紛れ込んだ3人の男たちが体験する物語という構造は悪くない。だけど、あらゆる要素をてんこ盛りにしたことで,何かが違う,という気にさせられた。この華やかなドラマは感傷を吹き飛ばす。戦争への激しい怒りをぶつける。だけど、激しさは増せば増すほど、「何か」が遠ざかる。一番大事なものが、そこからは零れ落ちる。

 

サブタイトルである『キネマの玉手箱』というタイトルが饒舌すぎるこの映画を象徴する。キネマ万華鏡とでも呼ぶべきこの作品は、大林映画の集大成を目指しすぎて、なんだか切ない。僕たちはこれまで彼が作ってきたすべての映画を知っている。そのひとつひとつの記憶を糧にして生きてきた。命を削って作った映画の数々を見てきた。それだけに、本当に命を削り取りながら,作ったこの映画は素晴らしい作品だと言うことは重々わかる。でも、何度も言うけど、「何か」が違う。今回、20年封印してきた尾道をもう一度取り上げて、幕引きをした。自らの映画の歴史をここに封印した玉手箱。閉じていく映画を見たくはない。映画は世界を開いていくものだ。そんな開かれた映画が見たい。そこから新しい「何か」が始まる。それは、その第一歩となるような映画だ。僕はそんな映画が見たかった。

 


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