スニーク・プレビューで来年公開予定のこの映画を、こんなにも早くに見てしまった。宮藤官九郎監督の第2作である。
タイトルに「少年」とあるが実は「中年」のおっさんパンクバンドによるツアーを描くロードムービーだ。クドカンの前作『真夜中の弥次さん喜多さん』もロードムービーだった。しかも、前回と同じように今回もとてもブラックな笑いを満載した映画になっている。ゲロと糞尿ネタを多用する下品さは、もちろんわざとで、だがそれで笑いを取ろうとするのではない。全体のアクセントかなんかにしてるみたいだ。(よくわからん)げっ、と思わせて次につなげていく。『団塊ボーイズ』のような中年オヤジの夢追いを描くヒューマンドラマにもならない。
ドキュメンタリー・タッチのオープニングには驚かされる。何が始まるのか、わからないまま、その後の思っくそハイテンションな導入部へ(ユースケ・サンタマリアと宮崎あおいのやりとり)なだれ込む。さらにはそのまま一気に佐藤浩市の(最初は彼とは全くわからない!)汚くて臭そうなオヤジの登場まで、凄まじいスピードで突き進んでいく。いったいこれから何が始まるのだろうか、とドキドキする。そこから、25年ぶりのバンド再結成までのエピソードはまぁ、笑える。
だが、この後映画が宮崎あおいと中年4人組のツァーを描く部分になったところから、だんだんテンションが下がってくる。勝地涼のへっぽこミュージシャンの恋人とのエピソードで笑わせるも、話自体がどんどん盛り下がってくる。その加速を補えない。これはがんばる中年オヤジへの応援歌なんかではない。
奴らはとことん惨めなまま旅をしていく。それによって映画がつまらなくなる、というのではない。このへんの展開も実は確信犯的行為なのだ。彼らは一向にかっこよくない。そして、そのままラストに突入していく。
ラストにはさらなる破壊がある。だってこれはパンク映画なのだ。だから、そこに感動なんか期待したら駄目だ。感動のラストなんか迎えたらそれだけで裏切り行為というものだろう。まぁ、これは一応東映のメジャー映画だから究極の破壊映画なんかにはならないし、クドカンもそんなことは望んではいない。けっこうお気軽な幕切れが用意されてあり、それなりのカタルシスもある。これを笑って受け止めてもいい。分類上はコメディー映画ということにしておいた方が無難だろう。
だが、83年の解散ライブと同じような行為に至る復活ツァーの幕切れを見ながら、そこに人間の業のようなものまで感じてしまうのは穿ちすぎか。簡単な和解なんかないし、映画のようにうまくことが運んだりはしない。(映画のくせに、ね)そのへんもクドカンの美学なのかもしれない。ちょっとイライラさせられるところが、この映画の持ち味だろう。
役者たちのオーバーアクトがギリギリのところで、上手く機能している。そんな中、ひとりいつも通りワニ目で怖い木村祐一が浮いている。もちろんそこは作者のねらいでもある。彼がこの映画のバランスシートを担っているのだ。佐藤浩市の兄と彼の確執が映画の核心である。
タイトルに「少年」とあるが実は「中年」のおっさんパンクバンドによるツアーを描くロードムービーだ。クドカンの前作『真夜中の弥次さん喜多さん』もロードムービーだった。しかも、前回と同じように今回もとてもブラックな笑いを満載した映画になっている。ゲロと糞尿ネタを多用する下品さは、もちろんわざとで、だがそれで笑いを取ろうとするのではない。全体のアクセントかなんかにしてるみたいだ。(よくわからん)げっ、と思わせて次につなげていく。『団塊ボーイズ』のような中年オヤジの夢追いを描くヒューマンドラマにもならない。
ドキュメンタリー・タッチのオープニングには驚かされる。何が始まるのか、わからないまま、その後の思っくそハイテンションな導入部へ(ユースケ・サンタマリアと宮崎あおいのやりとり)なだれ込む。さらにはそのまま一気に佐藤浩市の(最初は彼とは全くわからない!)汚くて臭そうなオヤジの登場まで、凄まじいスピードで突き進んでいく。いったいこれから何が始まるのだろうか、とドキドキする。そこから、25年ぶりのバンド再結成までのエピソードはまぁ、笑える。
だが、この後映画が宮崎あおいと中年4人組のツァーを描く部分になったところから、だんだんテンションが下がってくる。勝地涼のへっぽこミュージシャンの恋人とのエピソードで笑わせるも、話自体がどんどん盛り下がってくる。その加速を補えない。これはがんばる中年オヤジへの応援歌なんかではない。
奴らはとことん惨めなまま旅をしていく。それによって映画がつまらなくなる、というのではない。このへんの展開も実は確信犯的行為なのだ。彼らは一向にかっこよくない。そして、そのままラストに突入していく。
ラストにはさらなる破壊がある。だってこれはパンク映画なのだ。だから、そこに感動なんか期待したら駄目だ。感動のラストなんか迎えたらそれだけで裏切り行為というものだろう。まぁ、これは一応東映のメジャー映画だから究極の破壊映画なんかにはならないし、クドカンもそんなことは望んではいない。けっこうお気軽な幕切れが用意されてあり、それなりのカタルシスもある。これを笑って受け止めてもいい。分類上はコメディー映画ということにしておいた方が無難だろう。
だが、83年の解散ライブと同じような行為に至る復活ツァーの幕切れを見ながら、そこに人間の業のようなものまで感じてしまうのは穿ちすぎか。簡単な和解なんかないし、映画のようにうまくことが運んだりはしない。(映画のくせに、ね)そのへんもクドカンの美学なのかもしれない。ちょっとイライラさせられるところが、この映画の持ち味だろう。
役者たちのオーバーアクトがギリギリのところで、上手く機能している。そんな中、ひとりいつも通りワニ目で怖い木村祐一が浮いている。もちろんそこは作者のねらいでもある。彼がこの映画のバランスシートを担っているのだ。佐藤浩市の兄と彼の確執が映画の核心である。