『前編』を見終えた時、興奮した。こんなにも凄い映画を見たのは久々のことだ、と思った。冒頭から一気に作品世界に引き込まれた。凄まじい緊張感が全編を貫く。2時間が一瞬のことだ。しかも、これはミステリーではない。犯人探しなんて、蚊帳の外に置かれる。遺族と捜査に関わった警察の面々による人間ドラマなのである。さらには報道を巡る警察広報と記者クラブの軋轢を描く。従来の事件ものとは一線を画する。しかも、舞台となる昭和64年という特別な時間の問題もそこに影を落とす。昭和天皇崩御の報道の影に隠れてしまうことになった少女誘拐殺人事件。たった7日で終わった「64」の中で忘れ去られていく。
『前編』の凄さは、群像劇としてそれぞれのドラマが短い登場時間しかない人も含めて実に生き生きと描かれてあるところにある。いったいこのお話がどこにたどり着くのか、それすらわからないようなところが素晴らしい。主人公である佐藤浩市はもちろん全編出ずっぱりとなるのだが、彼だけではなく、少ない登場シーンである周囲の人たちも含めたみんなが主人公になる。ラストで突然新たな事件が起こるのだが、そこで終わっても、なお十分に満足感のある映画になっていたのだ。
なのに、続けた見た『後編』には、がっかりした。こんなことがあるんだ、と思った。この映画は一気に4時間を見たかったので、『後編』の公開を待った。1日で連続して見た。もちろん一刻も早く見たかったけど、我慢した。そのかいがあった、と『前編』を見た時には思ったのだが、っそうじゃなかった。1時間のインターバルの後見た『後編』。その緊張感のなさには驚く。こんなはずじゃなかった、と思う。
お話は後半になると、どうしても収束に向けて説明過多になるのは仕方がないことなのだけど、それにしてもこの緊張感のなさはどういうことか。『前編』で娘を誘拐された父親を演じた永瀬正敏がたどった道筋を同じように娘を誘拐された緒方直人がなぞることになるのだが、そこにはまるで弛緩した空気が漂う。役者のせいだけではない。台本が悪いのだ。両者の背負うものに違いをもっと際立たせるべきなのに、なぜ、単純にお話をなぞるのか。犯人は明らかに64を再現しようとした。そんなのはわかっている。しかし、観客である我々はそこを通して真犯人の内面に迫ることを期待する。なのに、まるでそこが描けないから緒方が木偶の坊にしか見えない。そんな彼に対してどれだけ怒りをぶつけても虚しい。
14年前、なぜ、彼があんなことをしたのか。それによって彼はどうなったのか。事件によって運命を変えられた多くの人々の中心に犯人である彼はいる、のである。『前編』では周囲の人物があんなにも印象的に描かれたのに、この『後編』のキーマンである彼だけがまるでバカにしか見えない。これは致命的だ。説明につぐ説明に終始するこの『後編』には、まるで魅力を感じない。
それに反して、『前編』の素晴らしさはどうだ。冒頭で、少女が誘拐されるまでがほんの短い描写で的確に描かれる。そこでは事件に至る直前のなんでもない風景が実に丁寧に描かれてある。ドキュメンタリータッチによって漬物工場で働く人たちの姿がスケッチさせる。この工場の主人(永瀬)とその妻。小学校1年になったばかりの娘の姿。その日、少女は帰ってこない。少女が学校に向かい駆け出す場面までのほんの数分間で、この映画の世界に引き込まれる。そこから一気に映画は加速する。
警察の捜査が始まる。誘拐犯からの連絡を受け、身代金の受け渡しのため、2億円を入れたトランクを持ち、父親は犯人の指示通り、右往左往することになる。この父親を演じた永瀬正敏が本当に素晴らしい。彼を見守るだけで、満足だ。果たして無事に娘は帰ってくるのか、ドキドキしながら見守ることになる。
もちろん永瀬は本編の主人公ではない。あくまでも佐藤浩市が主人公なのだが、彼の存在がこの映画を大きく引っ張ることとなる。14年後、県警の広報官となった佐藤と久々に再会することとなるシーンでの永瀬の佇まい。ボロボロになった男の姿を表面だけでなく内面から滲みださせる。事件によってすべてを失った男と、事件の後もずっと同じように警察で様々な事件を追いかけた男。彼らを軸にして警察機構の矛盾やとんでもない実態を浮き彫りにする。だが、テーマはそこではない。警察という組織で働く人たちの苦悩と現実を通して、人の哀れを描くこととなる。だからこれは犯人探しなんかではない、ということになるのだ。
『前編』の感動から、遠く離れた『後編』の無残は、すべてそこまでで積みあげたことを反故にした。あんなものでは、ここに込められた想いは描けない。ただ白黒つけるだけで、なんの解決にもならない。たとえ犯人が捕まろうとも永瀬の抱える傷みは癒されるはずもない。主人公である佐藤が『後編』では大活躍する。もちろん仕方ないことだ。だが、この映画は彼が警察内部の矛盾に耐え忍び、その軋轢の中で生きる姿が印象的だった。彼はヒーローではない。だが、映画を終わらせるために彼はヒーローにならざるを得なくなる。組織に中で生きていく痛みが描かれていたはずなのに、そこが反故にされるのが惜しい。