デレクジャーマンの庭、ダンジェントの風景を彷彿とさせる冒頭の情景描写に
まず引かれて読み始めたのだった。
荒涼とした人を拒むような場所を、あえて選んで住む人がいる。
作品の主人公は砂浜に建てた「別荘の真似事のような」小屋から海を見ている。
ところがこの海はドーバー海峡ではなく、海原の向こうはフランスという
英国の縁の砂浜ではなく、上総の地。そして海は太平洋であった。
冒頭からなぜかわたしの妄想はデレクジャーマンの映像につながっていたので
上総という文字に着いたところで、ちょっとガクッときたんである。
心の中で半笑い、しかし読み進めて行く。
「死は哲学のため真の、気息を吹き込む神である‥」というショウペンハウエルの
言葉を老いた主人公が思い出し回想していくことで話が展開していく。
しかし、そこは一般論とは異なるがゆえに小説としておもしろいのであって
鴎外の天の邪鬼というか、前衛的というか、公平さ、聡明さが発揮されていて
小気味いい。
「ふと書き棄てた反古である」などと末尾に記してあるが、明治末期の予見が
約100年後の今日、そう外れていないことにもハハン~と思ったりする。

(『森のテラス』にて撮影/武者小路実篤記念館(東京調布市)近くの貸スペース)
電車の中のうっとうしさを逃れるには文庫本を読むのがいい。
両隣や前後にイヤホンから音漏れさせていても平気なバカがいたにしても
作品に集中できれば聴こえなくなるからである。
おもしろくもないものだとジャリジャリという漏れくる音を遮るのに無理が
あるが、混雑した車内の30分ほどを別世界(妄想)に飛んでやり過ごした。
漱石の「こころ」が昨年からずいぶん売れているようだが、わたしは鴎外贔屓。
森茉莉が好きで鴎外も読み始めたという遅れてきたファンなので大きい声では
言いませんが、鴎外を読むと心が落ち着くのである。(ちくま文庫愛用)
考え方がマットウで、まだ「人に道があってあたりまえ」という日本人の教養
や良識が健在だった時代の安心感かもしれない、なんて言ったりして。
かつては日本人の教養とか良識があった、それが今はなくなってきた、
そういう考え方は、しかし都合のいい妄想なのである。
漱石が人気があるのは、描かれている人間の苦悩や喜びが時代を超えて
共感を得るからだろう。
鴎外もまた苦悩を書かないわけではないが外側から描く客観性が勝って
いる気がして好きだが、明治も平成も人がシットに苦しむところは同じである。
かつても今も、ほぼ変わらない。人は同じであると思う。
道を歩こうとする人は今も昔もいるし、個々の人がそれを選んでいるだけの
ことである。
デレクジャーマンも鴎外も、その内面的な生き方は少数派である。
空や海がひらけて見えるところを求め、市井から逃れる。
道は目に見えるところにはないからである。
それを鴎外もまた、繰り返し書いている。