想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

花より団子‥でもなくてよ

2009-04-13 22:38:15 | Weblog
     (先月末にやまざるさんちからいただいてきた水仙、りっぱです)

    無類の饅頭好きのうさこである。
    しかし、花好きでもある。
    花を贈られるとたいそう喜んでいるこの頃、
    贈ってくださった親切な方は、
    「花より団子、いやたしか饅頭だったはず‥‥人並みに花も喜ぶのか、
    そうだったのか」と、うさこの意外な反応に胸騒ぎを覚えておられる
    かもしれない。

    Sさんにいたってははっきりと、とても明快に満面の笑みでもって
    「信じられません。こんなにバラを好きになられるなんて、まあほんと
    わからないものですわー」と言われた。たじたじである。
    
    そこで、花に親しんでいることに嘘偽りのないことを記してみたい。
    (ブログの写真で証明になるかというと、それまたあやしい限りであるが)
    疑えばきりがないよ。
   (ついこないだ「疑うなかれ、されど疑え」と言ったけどね‥)



    Sさんに今年用のバラ苗を5本、直立系なので我が家には少なく購入予定
    なのを千里眼で見通されたのか、いいタイミングである。
    ありがたく頂戴した。Sさんはわたしより腕の力が強いので苗鉢を丁寧に
    梱包してくださった。二重にありがたかった。



    しかしこの谷間を吹き抜ける大風と雨にすぐにやられてしまう恐れがある。
    しばらくはプランター暮らしで、この地の風に吹かれてもらおう。
    以前に挿し木のモッコウバラをいただいて植え付けたが、ダメだったので
    今回のモッコウバラもしばらく植木鉢暮らしで、過保護に育てることにした。
    (モッコウバラの画像はありません、花がついてから撮ります)


      (星咲きゼラニウム、可憐な花をつけてます)

    最後の鉢は、鉢だけ可愛いわーといただいた時に思ったゼラニウム。
    Hさんがこの鉢を紙袋に入れて電車に乗って持ってきたのである。
    紙袋を差し出されたときに、中身が植木鉢だと知ってぎょっとした。
    ア、ハハハハ、と笑うHさんにいつものように気圧されて受取ったが
    帰り道は腕がちぎれそうになった。
    鉢の土に思いやりの水が施してあって重いのである。
    しかし、ゼラニウムちゃんにしてみれば、貰われっ子になるのだから
    喉が渇いて気づいたりしないようにというHさんの配慮である。
    気がきくようで利かないHさん、いつもではないが、この日はまさに
    そういうことだった。
    うさこは腕に湿布薬を貼って寝たが、ゼラニウムちゃんに恨みはない。

    Hさんはベランダガーディニングをしている。ケータイであちこちの花
    を撮りまくって溜めている。それがとても美しいのであるが、
    本人は自覚していない。写真は溜まる一方らしい。
    いろいろ自覚していないHさんがくれたゼラニウムは約3週間くらいで
    花が増えてきた。白い小さな星形の花は地味である。
    あまり好きな花でもなかったのに、日々、目に入り水を遣ったりしていると、
    その地味さかげんも含めてなんとなく可愛くなってきた。
    なんだか、不思議な気持ちである。
    そこで本日は写メを撮った。遅ればせながらHさんに送り、お礼申し上げた。    
    Hさんはわたしがゼラニウム嫌いだったということをまだ知らないのである。

    この星咲きのゼラニウムはHさんによると珍しいらしい。
    だが名前がわからない。
    どなたか、ご存知ではありませんか?(Hさんもわからんらしい)
    ‥‥、ゼラニウムも色々あるようだ。
    アメリカ人も色々、フランス人も色々、中国人も色々なのと同じである。
    嫌いなどと一口に言うのは止そうと、水をやりながら思ったのであった。
    Hさんは写メを見て、葉が少ないけど大丈夫かしらん?と心配していた。
    そして枯れたらかえってごめんなさい、と返信にあった。
    枯らすんじゃないわよ! と聞こえてしかたがないので、栄養剤を一本
    鉢に射しておいた。

    カメの周囲に弱った花や木を置くとたいていは蘇えり、挿し木もどんどん
    根づくのであるが、わたしにはとんとそういう力はない。
    ないが花のない暮らしなど、もう考えられないのである。

    
コメント (2)
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孤立する魂のために

2009-04-13 01:26:12 | 
    わたしはこう思うと言うだけでは力不足だと知ってなのか「みんなが」
    という言葉に恃む人は、「みんな」を信じているのか?
    決してそうではなく、相手を屈服させ、同意を得らんがために「みんな」
    を応用し「みんな」に応援を求める。この場合言葉の上だけだが。

    「だって、みんながそう言ってます、みんなもそう思うと思います」
    という言い分を言ってはばからない者には、この言葉の意味など
    一生かかってもわかるまい。(と、棄てたものでもない。とも思うので)
    ここに一片の詩を掲げてみた。

     《真実は個人的なものだ。

      気をつけろ。誰もが信頼に値するわけではない。

      疲労と労苦から浮かび上がり、これから前へ進み、
       私に次のように言う者に抱擁を。
         「私はおまえを騙すために来た。」》
           (ルネ・シャール全詩集「早起きの人たちの赤さ」より)


    みんなが、という話し方をする相手に要注意と心得ている。
    わたしが、と言えば責任が生じる。
    それを引き受けている言葉だけ、耳を傾けるに値する。

    レジスタンスの闘士でもあった詩人ルネ・シャールは私の戯言などとは
    比べるべくもなく数段も数十段もいやもっともっと厳しく高く
    言葉を紡いだ。
    「真実」は個人的なものである、と。
    プロパガンダで一色に塗りつぶされる世情にあって、この言葉は
    重く、抵抗の核心である。

    半世紀以上を経て、なおデモクラシーなど見当たらず、
    これほど「みんな」が蔓延する社会を当時の誰が予想しえたか。
    民衆を信じると、騙される。
    民衆の総意が果たして真実に近づけるか、残念だが否である。
    真実を安売りする者が今日もマイクの前で自分の声に酔っている。

    ゆえに、この言葉は重く大切なのだ。
    「真実は個人的なものだ。」
    それはまた、真実は普遍的なものだ、ともいえるのではないか。

    だからこそ、真実であるのだ。
    だがそれは奇跡のように、一握りの人にしか見えまい。
    悟りが一瞬であるように、そして誰かの幸福を譲り受けたりできないように。

    

    
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