いやフ○タチのことを言ってるわけではございません。
このごろ大方の大人がそうだなあ、と思ったまでのこと。
物知りで訳知りで、ついでに間違いも思い込みで知ってるつもり。
で、それに尾ひれもつけてもっともらしい嘘が一丁出来上がり。
なのに、本当に大切なことは、言葉だけしか知らない。
中身がない。
言葉だけ羅列してるのを抽象的とか観念的とか言ってるけど、
それは抽象や観念に悪いというもので、中身、実がしっかりある
から抽象化、観念化できるのであるよ。
うわっつらだけで言葉並べてるのは、知ったかぶりとか嘘つきとか
言う方があたってないか?
このごろは玄関の扉に喪中の張り紙をする家をみかけなくなった。
マンションが多いせいでもないだろう。住宅地に一戸建ての家は
たくさんあるし、老人と同居の世帯は多いはずだから。
で、喪に服すとは俗世を避け、遮断して仏様のそばにいることである。
ほとけさま、死んだ人はほとけさまであるよ。その冥界の旅の
入り口に寄り添って弔いながら時を過ごすのが喪中である。
そんなときに、知ったかぶりや興味本位の行動はもってのほかである。
世俗の金勘定なんかしてたら、バチが当たるぜよ。
おもいやりがなけりゃあ、喪中ったって、カタチだけに過ぎない。
生きてる方がほとけさまに譲んなきゃいけないんだ、喪中は。
昔の人はこころがあったなあ、今よりいくらかは。
個人差があるのは今も変わりないけど、でも平均すると今よりマシ
だろうなあ。
今は考えない人が多い。考えないから感じないし、感じないから
考えないし。どっちが先でも同じことで、便利な世の中になって、
なんでも金で買う。
人の死も、金で済ます。そういう家が増えた。
(年金不正受給の話じゃないよ、別に)
境目で過ごす時間を葬儀屋が奪ってしまったなあ、としみじみ思う。
奪われたなら、奪い返せばいいんだけど。
死者は病院から斎場へ送られ、家族と過ごす最期の貴い七日間が
失われている。人の気持ちも場所につられてしまえば静寂を保てない。
「おくりびと」映画は流行ったけどあいかわらず世間はせちがらいなあ。
ところで、父さんの墓地の草むしりしてくれてありがとう、真ん中の姉貴。墓の下に誰もいやしないってわかってても、ありがとう。
あの世とこの世、薄皮一枚よりもっと薄い境界、その境の壁に
生きてる者が寄り添うために、墓石一つ、目印つけた。
目印要らないからって常日頃うさこは言ってる。だけど遠い場所に
ある父と同じ石の下に、たぶん誰かが骨を運ぶのだろうなあ。
申し訳ない。
その時は、運んでくれる人のために、薄皮一枚を通して祈ろう。
ありがとう、ありがとう、そう祈ろう。
理屈でも知ったことでもなく、心からの気持ち、信の気持ちだ。
だって、死んでからはもう嘘はつかないからさ。