想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

訳知りで嘘つきである

2010-09-08 09:10:05 | Weblog

いやフ○タチのことを言ってるわけではございません。
このごろ大方の大人がそうだなあ、と思ったまでのこと。
物知りで訳知りで、ついでに間違いも思い込みで知ってるつもり。
で、それに尾ひれもつけてもっともらしい嘘が一丁出来上がり。

なのに、本当に大切なことは、言葉だけしか知らない。
中身がない。
言葉だけ羅列してるのを抽象的とか観念的とか言ってるけど、
それは抽象や観念に悪いというもので、中身、実がしっかりある
から抽象化、観念化できるのであるよ。
うわっつらだけで言葉並べてるのは、知ったかぶりとか嘘つきとか
言う方があたってないか?


このごろは玄関の扉に喪中の張り紙をする家をみかけなくなった。
マンションが多いせいでもないだろう。住宅地に一戸建ての家は
たくさんあるし、老人と同居の世帯は多いはずだから。
で、喪に服すとは俗世を避け、遮断して仏様のそばにいることである。
ほとけさま、死んだ人はほとけさまであるよ。その冥界の旅の
入り口に寄り添って弔いながら時を過ごすのが喪中である。

そんなときに、知ったかぶりや興味本位の行動はもってのほかである。
世俗の金勘定なんかしてたら、バチが当たるぜよ。
おもいやりがなけりゃあ、喪中ったって、カタチだけに過ぎない。
生きてる方がほとけさまに譲んなきゃいけないんだ、喪中は。

昔の人はこころがあったなあ、今よりいくらかは。
個人差があるのは今も変わりないけど、でも平均すると今よりマシ
だろうなあ。
今は考えない人が多い。考えないから感じないし、感じないから
考えないし。どっちが先でも同じことで、便利な世の中になって、
なんでも金で買う。

人の死も、金で済ます。そういう家が増えた。
(年金不正受給の話じゃないよ、別に)
境目で過ごす時間を葬儀屋が奪ってしまったなあ、としみじみ思う。
奪われたなら、奪い返せばいいんだけど。
死者は病院から斎場へ送られ、家族と過ごす最期の貴い七日間が
失われている。人の気持ちも場所につられてしまえば静寂を保てない。
「おくりびと」映画は流行ったけどあいかわらず世間はせちがらいなあ。

ところで、父さんの墓地の草むしりしてくれてありがとう、真ん中の姉貴。
墓の下に誰もいやしないってわかってても、ありがとう。
あの世とこの世、薄皮一枚よりもっと薄い境界、その境の壁に
生きてる者が寄り添うために、墓石一つ、目印つけた。

目印要らないからって常日頃うさこは言ってる。だけど遠い場所に
ある父と同じ石の下に、たぶん誰かが骨を運ぶのだろうなあ。
申し訳ない。
その時は、運んでくれる人のために、薄皮一枚を通して祈ろう。
ありがとう、ありがとう、そう祈ろう。
理屈でも知ったことでもなく、心からの気持ち、信の気持ちだ。
だって、死んでからはもう嘘はつかないからさ。
コメント
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