想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

月も、みている

2010-09-22 09:20:00 | Weblog
夕方、駅へ迎えの車を走らせていたら、真正面の空に月が出ていた。
外はまだ明るいけど、よく見えた。
ぽっかりと浮かんだ、月。




車を止めて写真を撮る。こういうときはちっとも面倒くさくない。
ケータイが鳴って車を路肩に止めたりするのは面倒だけど。

撮って、後ろを向いたら、もう夕焼けが始まっていた。
前も、後ろも、いい景色だった。
今日一日で一番いいひととき。
まだ今日は終わってないんだけど、さ。



うれしいとき、一番、今が一番と手を合わせ
単純な性格を表した一句を詠みつつ、駅へ急いだ。

子どもの頃嫌いだった秋を、少し忘れられそう気がした日。
月は父の目。

出家、在家という区分けは親鸞上人が比叡山を降り宗門を
開いてからなしくずしになってきたのではないだろうか。
親鸞上人の心を解らず形だけを真似て信徒と名乗る者ども‥。
出家したはずの坊さんが里へ降り、里とはつまり女人と酒の
ある場所で、遊里であるから破戒である。

出家も在家も仏道を求めて修行する覚悟をした証はその心にある
はずだ。心のありようはつまり身の置き方、過ごし方である。


在家で戒めを忘れずに生きることは口でいうほど、言葉にする
ほどたやすいことではない。
けれども戒めの中身をつきつめ、考え考えし、思考を重ねていく
ことで自制ははたらいてくる。
カメは学ぶ人に言っている。
「日常の中に信を見いだすべし」茶碗持つ手に神宿るというのである。



僧衣をまとい数珠をかけていても出家にはならず。
俗世にいるからといって大衆が破戒してのうのうと生きていいわけ
でもなし。かたよらずあることを教えているのが仏の戒めだ。
神道に戒めなどの文がないのは、それらを禊祓いした後に向かう道
だからである。
次元が違うと考えれば、身の置き方も然りとなろうかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする