想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

道中記

2010-09-10 14:10:21 | Weblog



アチチなのだ、アスファルトが焼けて裸足の足は痛いのだ〓。
水ゴクゴク飲んで熱中症対策バッチリ。
あとしばらく昼寝だす〓
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清々しさ

2010-09-10 01:53:06 | Weblog
熊野の特集をテレビでやっていたので録画しておいた。
ようやく見る時間ができて見た(でも半分だけ)。

熊野は好きな場所である。一口に好きと言っても色々な
意味があるけど、記憶の中で「好き」の箱に入った諸々を
思い出す。思い出しているうちに、好きと言えないことも
混ざって思い出されてくるが、それらを含めても、まあ
ゆるぎなく「好き」の場所である。

テレビでもやっぱり取材されていた、神倉神社の火まつり。
火まつりのことなど思いもせずに、あの急傾斜の石段を
這うようにして、いや、本当に這いながら登ったことを、
映像を見ながら思い出した。
同じようなかっこうで登っているオバさんが映っていた。

火まつりの男衆はその石段を火をつけた木の棒を持って
競争で駆け下りてくるのであった。
最初に登って行く集団の中に、くわえ煙草の若い男が映っていた。
祭りをしきる年寄り衆はいないのだろうか。
白装束が泣けてくる。
走り回って発散するだけの祭りになって、それでも毎年行われ
人がそこに群がって、テレビカメラも回っている。

熊野信仰の主人公は修験者である。
激しい行をする。そこに同じくらいの若い男の姿もあって、
ざんげ、ざんげ、ろっこんしょうじょう、と大きな声で唱え
ながら歌いながら山道を行く。
その顔が清々しかった。
神倉神社のくわえタバコの男が卑しい笑い顔だったのと対照的だ。
熊野の道を歩いたときの、胸の中を風が吹き渡っていくような
なんともいえず軽々と清々としたここちを思い出した。

コレ、アレと言わなくても、胸中に立った柱をしっかりと
感じられ、力を入れずとも歩ける。
長い距離も疲れなど覚えず、気持ちよく先へと進める。
その感じを思い出した。
あれは、信仰の感覚であるということ。

仏教から神道へ、学びを進めてようやく仏教世界を「情」から
切り離してとらえることができるようになった頃、わたしは
念願の熊野行を叶えた。
密教を信仰し、背中合わせの高野山へ何度も足を運んだのに
熊野へ行きたくなったのは、仏教を離れてからであった。
己を知ってはじめて行けた、そういう場所だったので忘れがたい。
「好き」の箱にとってあるのはそういうわけである。
~本日移動中~
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