意志は感性がなければただの欲に終わってしまう。欲は肉につながり
肉に呪縛され解放されない。欲の裏側は失うことへの不安や恐怖である
から愚痴るばかりになる。本当の生きる力は湧いてこない。
脳溢血で助かったが半身麻痺で不自由になったと聞くと父を思い出す。
父は偉丈夫な明治の男だった。美男子で、無粋を嫌う人であった。
自力で歩けずほとんど寝たきりで数年を過ごした人生の最期の季節、
床から何が見えていたのか、何を思い考えていたのか。
蘇る記憶の中に、父もまた意志の人であったことを認めることができる。
子であるわたしはそのことに少し幸せな気持ちになれ、不幸中の幸いより
少しだけ多めにくらいだが。
父の死後十年間はそのことを理解する由もなく嘆くあまりに暗い日々を
過ごした。空虚であった。悔いが大きすぎて自分の将来も考えられない
のであった。父の死とともに終わった気さえしていた。
寝たきりの父もまた生きていたのだ、希望を捨てなかったのだということを
知ったとき、わたしは初めて父の死に意義を見いだし、父の人生そのものを
尊ぶことができたと思う。心底うれしかった。
萎えた身体を以ても、生きる意味を教え続けてもらっていたと思う。
思い浮かぶ思い出のあらゆることに「寛容」へ至った父の姿が見えてくる。
これらのことをわたしはカメの教えに導かれて理解してきた。
カメが死者と生者の間をつなぎ、真意を伝えてくれた。
回生とは生者と死者の両方にまたがることのできる生き方である。
二人の科学者の往復書簡からは奇しくも科学では割り切れない世界が、
理知的な意志と相反する事無く伝わってくる。
カメに学んでいる事と、ほぼ重なる新しい思想に、文字にされなかった部分
がかえって読み取れる。それをダイレクトに言わないことが科学者の束縛と
矜持の両方であったろうと思う。
しかし、それでもお二人の肉声ははっきりと聴こえてくる気がした。
あっちが痛い、こっちが痛い、これが不自由、ああ嫌だ、身体の不具合
不都合を嘆き訴える声を身近に聞くことが少なくない。
カメへの取り次ぎ役と頼みにして相談してくる人のなかには自業自得だろ、
と放っておきたくなるわがままな人もいて、そういう人はわがままで
あることを自覚していないから強烈である。
我のかたまりになってぶつかってくる。
けれど、痛みがどういうことか、不自由がどんなに心を傷めるかが
わかっている。知らんフリするにはわかりすぎているともいえる。
ただ情けなく残念に思いながら聞いてはくれないだろう忠告もする。
もちろん、キカナイ、すぐには。こちらも引き下がらない、すぐには。
病になる前にしておかねばならないことは、学ぶことだと痛感する。
後から、悔いてからでも遅くはないが、無知な人は悔いることも
少ないのである。
考える力がなければ、内側から「新しき人」が再生してくるのは
不可能である。タネがなければ芽が出ない。
蓄積された知識と感性が、肉の限界を乗り越え、脳細胞の活性化を
促す原動力となる。魂の力とも言えるけれど、魂とか命という言葉に
アレルギーのある人にそれを説くとき、知性と感性と意志の三つが
必要だとカメは伝えている。
多くをたゆみなく学ぶことが考える力を育て、意志が目覚めるのである。
健康な肉体に恵まれている者も、死線を跨ぎ生き直すことはできる。
「私を滅す」がその方法である。
肉に呪縛され解放されない。欲の裏側は失うことへの不安や恐怖である
から愚痴るばかりになる。本当の生きる力は湧いてこない。
脳溢血で助かったが半身麻痺で不自由になったと聞くと父を思い出す。
父は偉丈夫な明治の男だった。美男子で、無粋を嫌う人であった。
自力で歩けずほとんど寝たきりで数年を過ごした人生の最期の季節、
床から何が見えていたのか、何を思い考えていたのか。
蘇る記憶の中に、父もまた意志の人であったことを認めることができる。
子であるわたしはそのことに少し幸せな気持ちになれ、不幸中の幸いより
少しだけ多めにくらいだが。
父の死後十年間はそのことを理解する由もなく嘆くあまりに暗い日々を
過ごした。空虚であった。悔いが大きすぎて自分の将来も考えられない
のであった。父の死とともに終わった気さえしていた。
寝たきりの父もまた生きていたのだ、希望を捨てなかったのだということを
知ったとき、わたしは初めて父の死に意義を見いだし、父の人生そのものを
尊ぶことができたと思う。心底うれしかった。
萎えた身体を以ても、生きる意味を教え続けてもらっていたと思う。
思い浮かぶ思い出のあらゆることに「寛容」へ至った父の姿が見えてくる。
これらのことをわたしはカメの教えに導かれて理解してきた。
カメが死者と生者の間をつなぎ、真意を伝えてくれた。
回生とは生者と死者の両方にまたがることのできる生き方である。
二人の科学者の往復書簡からは奇しくも科学では割り切れない世界が、
理知的な意志と相反する事無く伝わってくる。
カメに学んでいる事と、ほぼ重なる新しい思想に、文字にされなかった部分
がかえって読み取れる。それをダイレクトに言わないことが科学者の束縛と
矜持の両方であったろうと思う。
しかし、それでもお二人の肉声ははっきりと聴こえてくる気がした。
あっちが痛い、こっちが痛い、これが不自由、ああ嫌だ、身体の不具合
不都合を嘆き訴える声を身近に聞くことが少なくない。
カメへの取り次ぎ役と頼みにして相談してくる人のなかには自業自得だろ、
と放っておきたくなるわがままな人もいて、そういう人はわがままで
あることを自覚していないから強烈である。
我のかたまりになってぶつかってくる。
けれど、痛みがどういうことか、不自由がどんなに心を傷めるかが
わかっている。知らんフリするにはわかりすぎているともいえる。
ただ情けなく残念に思いながら聞いてはくれないだろう忠告もする。
もちろん、キカナイ、すぐには。こちらも引き下がらない、すぐには。
病になる前にしておかねばならないことは、学ぶことだと痛感する。
後から、悔いてからでも遅くはないが、無知な人は悔いることも
少ないのである。
考える力がなければ、内側から「新しき人」が再生してくるのは
不可能である。タネがなければ芽が出ない。
蓄積された知識と感性が、肉の限界を乗り越え、脳細胞の活性化を
促す原動力となる。魂の力とも言えるけれど、魂とか命という言葉に
アレルギーのある人にそれを説くとき、知性と感性と意志の三つが
必要だとカメは伝えている。
多くをたゆみなく学ぶことが考える力を育て、意志が目覚めるのである。
健康な肉体に恵まれている者も、死線を跨ぎ生き直すことはできる。
「私を滅す」がその方法である。