想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

旧事の学びの場で

2010-11-08 16:51:03 | Weblog
知るには問えと言われる。
箇条書きで問うのとは違う、自らの答えを内包した問いは
次へ進むための確認であり、試みである。

小さな子どもが父親に抱かれたまま、電車の窓から見える
一つ一つを指差して、あれは? あれは? あれは? と
尋ね続ける。父親はそれに淡々と応じる幼子の遊び。
同じような単純な問いかたを大人がしてどうするかと思うが
おとなもすなるクイズなる暇つぶし、なんてものがある。
前後の脈絡もないような「箇条書きで問う」ことでわかる
ものはいったい何なのだろうか、何を知りたくて問うのだろう。

旧事の学びは問うことが学びの形なので講義をだらっと聞くだけ
では次へ進むことも深化させることもできない。
人の数だけ問いはある。形式はないから自由だが要点は、学ぶ目的は
何なのか?を自らがわかっていることである。自分が知りたいのは
何なのか、くらいわかってないと‥。資格取得などの実利が目的では
ない学びかたは意外に、「で? それで何になる?」なんて思い始めて
挫折する人が多いんである。

知ったかブッタになりたくて来てもしょうがない場所だから以前から
問うことを条件、足切りがされるわけじゃないけど居場所がないから
黙っているだけだと続かないんである、結果的に。
人集めして、銭とってナンボ、なんてカルチャーみたいなことやって
いられるほどカメは暇ではないこともその理由で、問わない人の前では
話してくれないのである。

真剣で真面目でなければ話の輪には入れない。なんとなく混ざるって
のは居心地が悪いから感化されて想定外に考えちゃったりする。
そんな場所、いまどき珍しいから覗きたいというような、そんな
好奇心の人も混ざる。きっかけが好奇心でも、嘘でも、本音は隠しようが
なくて不真面目は淘汰されていく。

うさことて、最初から何かをわかっていたわけでない。漢文が苦手で
天皇アレルギーの左寄りな無知であった。自分でもハマったのが意外である。
どこにもなかった答えがここにあったから難しくても魅力であった。
要は本音が問題かな。わからないことは早く認めて問えばいいんである。
根っこが腐っていなければ‥。

貞善という言葉がある。
貞は卜と貝の合体した字で、神に問う形を示している。
貝とは宝のことで、おのが宝を捧げて神に尋ねるのである。
宝は善、おのがまことでそれを物質にかえると金である。
銭ではなく金であり、桃である。
いったい何のことかとわからないままに、こういう話をだらっと
聞いてもしょうがないのである。つきつめると面白い。

それって何? と言葉の意味を問うのは幼子の問いに似ている。
何?ではなく何故?と問い、なぜならばを考え、だから、と突き詰める。
この一連を含めて問う、そこまで自分で思考した上で問え、である。
一行解るのに一ヶ月、ザラである。
それがおもしろくて二十年やってきたが‥もちょっと速度を上げると
熱など出て、ちったあ易われるかもしらんなあ。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海から遠く離れて

2010-11-08 12:15:08 | Weblog

ニュースでは東シナ海の波頭を毎日映し出している。
行ったことがない場所、これから行くこともないだろう遠いところ。
争いの火種がそこにくすぶって人の心をかきたてている。
そうでもないかぎり、わたしには見ることがなかった小さな島影と
波の上を高く低く飛び交う海鳥。
啼く声が聴こえてきそうだ、こんなにも毎日見ていると。



島国の端っこにあるやや大きめの島の真ん中あたりの山裾の町で
育ち、北上して大きな島の都会へ移り住んだ。
そしてまたさらに北へ、大きな島のヘソあたりにある森へ。
海から遠く離れて暮らしている。

島国に生まれ、海を懐かしまない日本人はいない。
海を母と慕い、恵みに甘えてきた。
甘やかされて幸せだった。

苦海へ変えてしまうのは、いつも我々人間だ。
大陸の大地も海の潮水も、ひとつづきで母は独りだ。
母の嘆きをおもいやることもなく、甘えてばかりの二千年。
そろそろ、潮時なのだろうか。
海から遠く離れて、母を想う。
もっと大きな心で、遠くまで見はるかす眼を持てと、聴こえる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする